第78話 停戦の兆し
峡谷の戦いから、ひと月が過ぎた。
黒狼砦には、初雪が舞っていた。
「よぉし、新兵ども! 槍は腕で突くんじゃないよ! 腰で突くんだ!」
裏庭に、懐かしい怒声が響いていた。
マルタさんだ。左肩はまだ布で吊っているが、右手にはしっかりと杖代わりの槍を握っている。寝台を抜け出してはセラに叱られ、叱られてはまた抜け出して、ついに「座ったままならいいです」という許しを勝ち取ったのだ。
「小さいマルタ隊長と大きいマルタ隊長が揃っちまった……」
新兵たちが青い顔で嘆いている。その前で、ピートが胸を張っていた。
「誰が小さいマルタ隊長だ、誰が!」
俺は回廊からその光景を眺め、小さく笑った。
◇
「トーマ。王都からだ」
司令室で、リーゼが二通の手紙を机に並べた。
一通は、アーベント伯爵の封蠟。もう一通は――双頭の鷲の紋章。帝国皇家の封蠟だ。
「ルカ殿下から、正式な使者を通して届いた。もう仮面の密書ではない」
リーゼが、帝国の手紙を開いた。
『――第一皇子ゼノンは、父帝の裁きにより、皇位継承権を剥奪のうえ、北の離宮に幽閉となった。父帝は王国との講和を望まれ、来たる春、王都にて会議を開くことを提案されている。帝国の代表は、不肖、私が務める。』
「……講和」
俺はその言葉を、口の中で転がした。
原作には存在しなかった言葉だ。『アッシュ・レクイエム』の王国と帝国は、最後の最後まで殺し合い、そして両方とも黄昏に飲まれた。
「『王国の兵士Cにも、ぜひ会議の席に立ち会ってほしい。彼がいなければ、この席そのものがなかったのだから』――だそうだ」
「……勘弁してほしいです」
「諦めろ。もう一通も、同じことが書いてある」
伯爵の手紙だ。リーゼはそれを開き、一通り目を通して、それから、なぜか顔を赤くした。
「……どうしたんですか」
「…………追伸がある」
リーゼは、手紙を俺のほうへ押しやった。
その末尾に、伯爵の生真面目な字で、こう書かれていた。
『追伸。砦の複数の者より、「副司令と兵士Cが屋上で……」との報告が届いている。屋上で何があったのか、父は問わない。ただし――娘を泣かせた場合、灯守の徽章は返してもらう。』
「…………」
「…………」
「……誰ですか、報告したの」
「第七の誰かだ。全員だ。――全員、明日の朝稽古は倍だ」
窓の外で、何人かが「ひぃっ」と悲鳴を上げて逃げていく足音がした。
◇
その夜。俺は、砦の無人の厩舎で、ノエルと一緒に馬の世話をしていた。
ノエルは峡谷のあと、正式に第七に配属された。弓の腕は砦でも一番で、今では新兵たちに「鷹の目のノエル」と呼ばれている。
だが、彼の弦には、今も赤いリボンが結ばれたままだ。
「……帝国との講和が決まったら、リナも帰ってくるんですかね」
ノエルが、馬の鬣を梳きながら尋ねた。
「ルカ殿下は約束した。あの人は約束を破らない」
「でも、あの人が――シオンさんが、リナを手放すとは思えないんです」
ノエルの手が、止まった。
「あの人、リナのことを話す時だけ、声が変わるんです。優しいのに、なんだか――すがりつくみたいな」
俺は、崖の上のシオンの言葉を思い出していた。
『湊はね、病院のベッドで』――
七つ年下の弟。十四歳で死んだ弟。
「……ノエル。リナちゃんは、今いくつだっけ」
「九つです。春には十になります」
「……そうか」
俺は、それ以上は何も言わなかった。
だが、胸の奥で、小さな棘のようなものが引っかかっていた。
シオンは、弟を失った姉だ。そして今、彼女の館には、兄と引き裂かれた幼い妹がいる。
その二つのことが、なぜか、うまく切り離せなかった。




