第77話 リーゼの話
その日の夕方、砦では、峡谷の勝利を祝う宴が開かれた。
食堂には入りきらず、中庭にまで卓が並べられた。王都から届いた酒樽、近くの村が差し入れてくれた豚の丸焼き。バルド将軍が私財で買い付けたという、山のような林檎。
「はっはっは、飲め飲め! 今日だけは無礼講だ!」
「将軍、それ、もう三回目です」
「三回無礼講だ!」
ガイが腕相撲で五人抜きを達成し、ピートが新兵たちに峡谷の武勇伝を尾ひれをつけて語っている。セラとリタは、飲みすぎた兵士たちに水を配って回っていた。
「トーマさん」
杯を手に壁際に立っていた俺のところへ、セラがやってきた。
「リーゼさんが、屋上でお待ちですよ」
「えっ」
「『後で来いと伝えろ』って。――ふふ。声が、すごく震えていましたよ」
セラはいたずらっぽく笑い、それから、少しだけ真剣な顔になった。
「……あの、トーマさん。前に、私、『好きになってもいいですか』って聞きましたよね」
「……はい」
「あれ、もう答えはいただいています。峡谷で、トーマさんが『副司令』って叫んだ声を聞いた時に」
セラは、人の声を聞く聖女だ。
「あんな声、私には一度も向けてくれたことがないんですもの。――だから、もういいんです」
「セラ……」
「でも、後悔はしていませんよ。トーマさんを好きになったおかげで、私は、自分のために生きたいって思えたんですから」
彼女は俺の背中を、とんと押した。
「さあ、行ってください。――それと、泣かせたら、私が許しませんからね」
◇
屋上には、冷たい夜風が吹いていた。
リーゼは、眼下の中庭を見下ろしていた。笑い声と篝火の明かりが、ここまで昇ってくる。
「……来たか」
「はい」
俺は彼女の隣に並んだ。王都の客館の屋上で、新月の前夜にこうして並んだことを思い出す。あの時は、彼女に「生きて帰れ、命令だ」と言われた。
しばらく、二人とも黙っていた。
やがて、リーゼが口を開いた。
「……あの隘路で、口が勝手に動いたと言ったな」
「はい」
「あれは嘘だ。――いや、半分は本当だが」
リーゼは、手すりを握る指に力を込めた。
「あの時、私は本当に、一人で残るつもりだった。砦の兵を守るためなら、それでいいと思った。父上に教わった通りに。――お前の言う『原作』の私も、きっとそうだったんだろう」
「…………」
「だが、あの台詞を言いかけた時――お前の顔が見えた。そうしたら、次の言葉がどうしても出てこなかった」
リーゼは、ゆっくりと俺のほうを向いた。
「お前を置いて、一人で死にたくなかった。――それが、私の理由だ」
篝火の灯りが、彼女の赤い髪を照らしていた。
「私は、お前が好きだ。トーマ」
俺は、息ができなかった。
前世で、二万時間。画面の向こうの彼女を、何度も何度も見送った。この世界に来て、一年。この人を死なせないために、全部を賭けてきた。
だが、いつからだろう。
この人を『原作のリーゼ』としてではなく――毎朝剣を振り、不器用に笑い、父親の前で意地を張り、隣に来いと呼んでくれる、ただ一人の人として見るようになったのは。
「……俺もです」
やっと、声が出た。
「俺も、リーゼさんが好きです。物語の中の人じゃなくて――今、ここにいる、あなたが」
リーゼは、一瞬、泣きそうな顔をした。
それから、俺の胸ぐらを掴んで、額をそこに押し付けた。
「……遅い。何度、私に言わせるつもりだ」
「すみません」
「謝るな。――それと」
彼女は顔を上げずに、続けた。
「その先の言葉は、まだ言うな。お前の帳面には、まだ名前が残っているんだろう」
「……気づいてたんですか」
「朝、お前が次のページをめくったのを見た」
リーゼは、ようやく顔を上げた。その目は、いつもの副司令の目だった。
「全部に線を引き終えたら、その時に聞かせろ。場所は――そうだな、あの東壁がいい」
「……はい。約束します」
「よし」
リーゼは満足そうに頷き、それから、俺の手をそっと握った。
中庭から、ひときわ大きな歓声が上がった。見下ろすと、第七の連中が一斉にこちらを見上げて、杯を掲げていた。
「…………見られていたのか」
「そうみたいですね」
リーゼの指先から、かつてないほど細く、勢いのある炎が、夜空へと高々と打ち上げられた。
それは、照れ隠しの花火だった。




