第76話 消された名前
翌朝。黒狼砦の東壁に、第七中隊の面々が集まっていた。
まだ夜が明けきらない、藍色の空。俺が前世を思い出したあの夜、居眠りをしそうになりながら見張りに立っていた、あの東壁だ。
「……なんでわざわざ、こんな寒いとこでやるんだい」
ガイに背負われたマルタさんが、毛布にくるまれて文句を言った。その声はまだ掠れているが、目にはいつもの光が戻っている。
「ここから始まったからです」
俺は、壁の上に帳面を広げた。
「俺がこの帳面を書き始めたのも、この壁の上でした。だから――線を引くのも、ここがいいんです」
第七の皆が、帳面を覗き込んだ。
そこには、俺の下手な字で、名前が並んでいる。
『灰の峡谷 ―― リーゼ・アーベント(隘路にて、部下をかばい)』
『同 ―― マルタ(第七中隊長、新兵を守り)』
『同 ―― ガイ(大盾を構えたまま)』
『同 ―― ピート(初陣)』
「……初陣って書かれてる……」
ピートが、小さく身震いした。
「書いた当時は、まだお前の顔も知らなかったんだ。――さあ、自分で引けよ」
俺がペンを差し出すと、ピートは一瞬、驚いた顔をした。
「……いいんですか」
「生き残ったのは、お前自身だから」
ピートは震える手でペンを握り、自分の名前に、まっすぐな線を引いた。それから、うわあんと声を上げて泣いた。
第七の古参たちが、一人ずつペンを取っていく。笑いながら引く者。黙って引く者。線を引いたあと、そっと自分の胸を叩く者。
やがて、ガイの番になった。
ガイはマルタさんを背負ったまま、大きな手で不器用にペンをつまんだ。
「……俺の名前が、前に一度線で消されてたの、知ってたぞ」
「えっ」
「お前が一人で、何度も書いては消してただろ。俺を生かす方法を考えて、そのたびに。――あれは、今日の予行練習だったんだな」
ガイは俺の顔を見て、にかっと笑った。
「ありがとうな、トーマ」
太い、強い線が、ガイの名前を横切った。
◇
「――さあ、あたしの番だね」
マルタさんが、ガイの肩越しに右手を伸ばした。左肩はまだ布で固められていて、動かせない。
俺が帳面を支え、マルタさんがペンを握る。
彼女は、自分の名前の上で、しばらく手を止めていた。
「……十年前にも、こういう帳面がありゃよかったのにねえ」
その一言に、誰も何も言えなかった。
「いや、違うな。あの子にも、あんたみたいな友達がいりゃよかったんだ」
マルタさんは笑った。そして、ゆっくりと、丁寧に、自分の名前に線を引いた。
「――はい、消した。約束、果たしたよ」
その瞬間、東の空の端が、金色に光った。
◇
最後に残ったのは、一番上の名前だった。
『リーゼ・アーベント』
リーゼは、皆の一番後ろで、腕を組んで立っていた。
「副司令。どうぞ」
俺がペンを差し出すと、彼女は首を振った。
「お前が引け」
「でも、皆自分で――」
「私は、一人であの隘路を生き延びたわけじゃない」
リーゼは、まっすぐに俺を見た。
「隣にいたのは、お前だ。だから――お前が引け」
俺はペンを握り直した。
手が震えて、うまく定まらない。一年前の秋、この壁の上で、この名前を一番最初に書いた。それから何度も、何度も、この名前を眺めては、眠れない夜を過ごした。
リーゼの手が、俺の手に重なった。
「……一緒にだ」
二人の手で、一本の線を引いた。
朝日が、東壁を照らした。
「――うおおおおおおっ!」
第七の誰かが叫んだ。それを合図に、東壁の上は歓声と泣き声と笑い声でいっぱいになった。ピートがガイに抱きつき、マルタさんが「痛いよ、馬鹿!」と怒鳴る。
俺は、線の引かれたページを、ずっと見つめていた。
それから、そっと次のページをめくった。
そこには、まだ線の引かれていない名前が、いくつか残っていた。
『帝都陥落 ―― ルカ(玉座の間にて)』
『黄昏の日 ―― セラ(最後の聖女として)』
『同 ―― 王都の人々』
皆の歓声を背中で聞きながら、俺はそのページをそっと閉じた。
まだ、終わっていない。
だが――今はもう、一人でこの帳面を開く必要はない。




