第75話 消してくれたかい
王国軍が黒狼砦へ帰り着いたのは、峡谷の戦いから五日後のことだった。
道中、どの村を通っても、人々が道の両脇に並んで俺たちを迎えた。「戦死者ゼロ」の報せは、俺たちよりも速く王国じゅうを駆け巡っていたのだ。
花を投げる娘。帽子を振る老人。父親に肩車されて、木の剣を振り回す子どもたち。
「第七中隊だ!」
「あの大きい人が、鐘を鳴らした人だって!」
ガイが若い娘たちに囲まれて、真っ赤になって硬直している。ピートがそれを指差して腹を抱えて笑っている。
だが、その笑い声は、どこか空元気だった。
行列の真ん中。幌をかけた荷馬車の中で、マルタさんはまだ、目を覚ましていなかった。
◇
砦の救護棟の一番奥の寝台に、マルタさんは寝かされた。
セラとドーラ婆さんが、交代でつきっきりで看ている。熱は下がった。傷口も塞がりかけている。それでも、目だけが開かない。
「体は、もう大丈夫なはずなんです」
セラが、マルタさんの額の布を替えながら言った。
「あとは……マルタさんが、戻ってきたいと思うかどうかです」
「戻ってきたくない理由なんて、あるんですか」
「……夢を見ているのかもしれません。とても、優しい夢を」
セラは少しだけ、言いよどんだ。
「はっきりとは聞こえません。でも――マルタさんの声が、時々、誰かの名前を呼んでいるんです」
十年前に失った息子。十八歳の新兵。待ち伏せの警告を笑い飛ばされ、帰らなかった子。
俺は、寝台の横の椅子に腰を下ろした。
◇
それから三日、俺は毎晩、その椅子に座った。
何をするわけでもない。ただ、その日あったことを話した。
ピートが、マルタさんの代わりに新兵の槍の稽古をつけていること。教え方がマルタさんそっくりで、新兵に「小さいマルタ隊長」と呼ばれて怒っていること。
ガイが、村の娘から手紙をもらって、一日じゅう挙動不審だったこと。
リーゼが、毎朝こっそり救護棟に来て、マルタさんの寝顔を一瞬だけ見て帰っていくこと。本人は誰にも気づかれていないつもりらしいこと。
「……それで、マルタさん」
四日目の夜。俺は、懐から帳面を取り出した。
「これ、取り返しました。でも、まだ一本も線を引いてないんです」
窓の外で、夜風が鳴っている。
「マルタさんが起きないと、引けないんです。一番に約束したのは、マルタさんだから」
――返事はない。
「……俺、あの峡谷で、マルタさんに教わった槍で機兵を倒したんですよ。写し身じゃなくて、自分の力で。腰で突いて。足の裏から。――褒めてくれても、いいじゃないですか」
声が、少し震えた。
「新兵の言うことは信じるって、言ってたじゃないですか。――だから、信じてください。もう大丈夫だから。誰も、もう、あの峡谷では死なないから」
その時だった。
寝台の上で、皺の寄った指が、わずかに動いた。
「…………うるさいねえ」
掠れた、小さな声。
俺は、息をするのも忘れて、顔を上げた。
マルタさんの目が、薄く開いていた。
「……人がいい夢見てる時に、あんたは……いつまでも、ぶつぶつと……」
「マルタさん……」
「夢の中でね、あの子に会ったよ。……『母さん、まだこっちに来ちゃだめだ』って、背中を押されちまった」
マルタさんは、掠れた声で小さく笑った。
「それで、だ……」
彼女の目が、俺の手の中の帳面を捉えた。
「――消してくれたかい」
俺は、ただ首を振った。声が、出なかった。
「……じゃあ、早くしな。あたしは、待ちくたびれたよ」
リーゼに、約束した。マルタさんが目を覚ましたら、泣いていいと。
だから俺は、子どもみたいに、声を上げて泣いた。
救護棟の扉の外で、誰かが崩れ落ちるような音がした。それが誰なのか、俺にはもうわかっていた。




