第74話 名簿
その夜、峡谷の入り口に張られた本陣の天幕で、最後の報告が読み上げられた。
「――王国軍、負傷者、四百十二名。うち重傷者、三十一名」
伝令の若い兵士が、羊皮紙を持つ手を震わせていた。
「そして――戦死者」
彼は一度、唾を飲み込んだ。
「……ゼロ、です」
天幕の中が、静まり返った。
誰も声を出さなかった。バルド将軍も、リーゼも、各部隊の隊長たちも。まるで、口に出した瞬間にその数字が消えてしまうのを恐れるように。
やがて、バルド将軍が、ゆっくりと立ち上がった。
「……もう一度、読め」
「は、はい。戦死者、ゼロです」
「もう一度だ」
「戦死者、ゼロ!」
若い兵士が叫ぶように読み上げた瞬間――熊のような将軍が、天を仰いで大声で笑い出した。
「ふはははははは! 聞いたか! 帝国軍の主力と、魔導機兵と、地の底の化け物を相手にして、一人も死ななんだと!」
それが合図だった。天幕の中に、歓声が爆発した。外で聞き耳を立てていた兵士たちが、その声を拾って叫び、その叫びがさらに外へと広がっていく。
「戦死者ゼロだってよ!」
「嘘だろおい!」
「嘘じゃねえ! 俺たち、生きてるぞ!」
俺は、天幕の隣でそれを聞いていた。
原作の「灰の峡谷」。王国軍一万、全滅。生存者、なし。
その一行が、今日、書き換わった。
「トーマ」
リーゼが、俺の前に立っていた。
「……泣くのは、まだ早いぞ」
「泣いてません」
「そうか。では、その頬を流れているのは何だ」
「……灰です」
リーゼは笑い、自分の袖で乱暴に俺の顔を拭った。
「マルタが目を覚ましたら、泣いていい。それまでは我慢しろ。――私も、そうする」
◇
焚き火の前に、俺は一人で座っていた。
膝の上には、シオンが置いていった帳面。開けば、何十もの名前が並んでいる。
まだ、線は引いていない。
「……隣、いいですか」
振り向くと、ノエルが立っていた。弓の弦には、まだ赤いリボンが結ばれている。矢羽根に結んだのは、その切れ端だったのだ。
「ああ。――ありがとう、ノエル。あの時、俺は振り向けなかった」
「……俺のほうこそ。すいませんでした」
ノエルは焚き火の前に腰を下ろし、膝を抱えた。
「砦に来た時、あんたを殺すつもりでした。あの人の言うことを全部信じて。――母ちゃんと父ちゃんの仇だと思って」
「…………」
「でも、あんたは一度も言い訳しなかった。『俺のせいじゃない』って、一度も」
「……俺が運命を変えなければ、リンデ村は別の形で終わってたかもしれない。それは、本当のことだから」
「リンデ村は、原作でも焼けたんですか」
俺は、少し迷ってから首を振った。
「……原作には、リンデ村という名前は出てこない。ただ『国境の村々は、帝国軍の進軍ですべて失われた』って、一行だけ」
「……そうですか」
ノエルは、しばらく火を見つめていた。
「じゃあ、あんたがいなければ、俺もリナも、その一行の中に消えてたんだ」
「…………」
「俺、もうあんたを恨んでません。それだけ、言いたくて」
焚き火が、パチリと爆ぜた。
◇
「――会話中、すまない」
闇の中から現れたのは、仮面を外したままのルカだった。
「ルカ殿下。帝国の陣にいなくていいんですか」
「兄上は配下に任せた。明朝、帝都へ連れ帰る。――その前に、一つだけ伝えておきたかった」
ルカはノエルの前に片膝をついた。
「君がノエルか。妹御のことは、トーマから手紙で聞いている」
ノエルが息を呑んだ。
「宮廷魔導師シオンの館は、帝都の北の丘にある。帝国の皇子ですら、勝手には入れない結界の奥だ。だが――」
ルカは、まっすぐにノエルを見た。
「赤いリボンの少女を、館の庭で見たという者がいる。元気に、花に水をやっていたそうだ」
ノエルの肩が、大きく震えた。
「帝国の皇子として、約束しよう。君の妹は、必ず君のもとへ帰す」
ノエルは何か言おうとして、言葉にならず、ただ地面に額をこすりつけた。
その背中に、俺はそっと手を置いた。
帳面には書いていない名前だ。だが、この少年の妹も、必ず帰す。
それもまた、俺たちが歩く、結末までの道の一部だ。




