第73話 満ちない柱
谷の底が、光った。
地面の割れ目から、黒いものがせり上がってくる。大聖堂の地下で見たものと同じ、黒曜石のような巨大な柱。ただし、今度のそれは、大聖堂のものよりもはるかに大きかった。
谷を埋め尽くすほどの黒い柱が、脈打つように光っている。
「――灰の王の、心臓」
シオンがうっとりと呟いた。右手の光が、糸のように谷底へと伸びていく。
「この柱はね、死んだ人の想いを吸って満ちるの。原作で王国軍が全滅した時、これは一気に満ちた。そして帝都が燃えて、二本目が満ちて、最後に黄昏の日が来る」
「…………」
「今日は少なかったけど、ちゃんと血は流れた。だから、半分くらいは――」
そこで、シオンの声が途切れた。
柱の光が、弱い。
脈打つ間隔が、みるみる遅くなっていく。光は柱の底のほうを、わずかに濡らすだけで、それ以上どこにも昇っていかない。
「……どうして?」
シオンの笑顔が、消えた。
「どうして満ちないの。ちゃんと人は死んだはず。ゼノンくんの兵も、機兵に潰された兵も――」
その時、俺は、エレオノーラの手帳の一節を思い出していた。
『柱は、物語に名を刻まれた者の灰をこそ求める。』
大聖堂の地下で、意味もわからずに読んだ一文。
物語に名を刻まれた者。
俺の帳面に、名前が書かれた者たち。
「……シオンさん」
「……何?」
「その帳面を、開いてみてください」
シオンは、何かに怯えるように、抱えていた帳面を開いた。
そこに並んでいるのは、灰の峡谷で死ぬはずだった名前。
リーゼ・アーベント。マルタ。ガイ。ピート。第七中隊の、何十もの名前。
「その帳面に名前のある人は、今日――誰一人、死んでいません」
「――っ」
「マルタさんも、息をしています。リーゼさんは、この崖の下で俺を待ってます。そうですよね、副司令!」
俺が声を張ると、崖の中腹から、即座に声が返ってきた。
「当たり前だ。遅いぞ、トーマ!」
シオンの指が、帳面の上で震えた。
「この柱が欲しがってるのは、ただの死じゃない。物語の中で死ぬと決められた人の死だ。だから――誰も死ななければ、この柱は、満ちない」
◇
谷底の柱の光が、ゆっくりと消えていった。
黒い柱は地の底へ沈み、割れ目から湧いていた灰の霧が、風に流されて薄らいでいく。雲の切れ間から、夕日が差し込んだ。
シオンは、その光景を立ち尽くしたまま見ていた。
「……満ちない……」
その声は、まるで迷子の子どものようだった。
「そんな、そんなの、攻略サイトのどこにも……」
「書いてあるはずないです。誰も、全員を生かした人なんて、いなかったんだから」
俺は一歩、彼女に近づいた。
「シオンさん。もしかしたら――湊くんが言ってた真ルートって、全滅の先じゃなくて、その逆なんじゃないですか」
シオンの肩が、びくりと跳ねた。
「……やめて」
「誰も死なせずに、最後までたどり着いた人だけが見られる結末――」
「やめてって言ってるの!」
初めて、彼女の声が荒れた。
「それじゃ……それじゃ、わたしがここまでやってきたことは、全部……!」
彼女はそこで言葉を飲み込み、唇を強く噛んだ。
長い沈黙のあと、シオンは帳面を閉じ、そっと足元の岩の上に置いた。
「……約束だから。勝ったほうが、もらう」
「シオンさん」
「でも、まだ信じない。今日のこれは、たまたまかもしれない。わたしは――もう少しだけ、湊を待たせる」
彼女の足元から、青い光が立ち昇った。転移の魔法陣だ。
「待ってください!」
「黄昏の日に、また会おう。――そこで、本当の答え合わせをしよう」
青い光が弾けた。
そこにはもう、誰もいなかった。
岩の上に、一冊の帳面だけが残されていた。
俺はそれを拾い上げた。表紙は、ほんの少しだけ湿っていた。
彼女がどんな顔でこれを置いていったのか、俺にはわからない。




