第72話 崖上の対話
西の崖へ続く獣道は、灰をかぶって白くなっていた。
「一人で行くつもりか」
リーゼが俺の後ろをついてきた。
「あの人は、俺と話したがっています。たぶん、俺としか話せないことを」
「……同郷の話か」
「はい」
リーゼはしばらく黙っていたが、やがて崖の中腹の岩に腰を下ろした。
「ここで待つ。声が届かなくなったら、ただちに上がる。――忘れるな、隣に立つのは私だ」
「……はい」
◇
崖の上は、風が強かった。
シオンは崖の縁に立ち、谷を見下ろしていた。黒い外套が風にはためき、肩までの黒髪が揺れている。
「来てくれたんだ」
振り向いた顔は、茶会の時と同じ、穏やかな笑顔だった。
「すごいね。坑道は三本とも潰されて、ゼノンくんは捕まって、ルカくんは帝国の英雄。リーゼさんは――あの隘路で、生きてる」
「…………」
「わたし、あの場面で三百回は泣いたよ。君もでしょう?」
「……数えたことはないです」
「ふふ。そういうところ、湊に似てる」
シオンは崖の縁に腰を下ろし、足をぶらぶらさせた。まるで、放課後の屋上にいる女子大生のように。
「湊はね、リーゼさんが一番好きだったの。『姉ちゃん、この人だけは助けたい』って、病院のベッドで何度も言ってた」
「……だったら、なぜ」
「なぜ全滅を望むのか、って?」
シオンは空を見上げた。
「湊が死んだ日の前の夜に、言ったの。『全滅エンドの先には、真ルートがあるんだ。灰の王が、死んだ人をみんな還してくれるんだよ』って」
「…………」
「だから、この世界で目を覚ました時、わたしは思ったの。あ、これは、約束を果たすための世界なんだって。全滅エンドを迎えて、その先で灰の王に会えば――湊も、帰ってくるかもしれないって」
その声には、一片の濁りもなかった。セラが言った通りだ。この人は、心の底からそう信じている。
「そのために、大勢が死ぬんですよ」
「灰の王は、その人たちも還してくれるよ」
「確かめたんですか」
シオンの笑顔が、ほんの一瞬だけ、ひきつった。
「……三万二千時間遊んでも、真ルートにはたどり着けなかった。誰も。攻略サイトにも、何も書いてなかった。だから、確かめるには、ここでやるしかないの」
「…………」
「君だってそうでしょう? 二万時間遊んで、全員が生き残るルートなんて、一度も見たことないはず。なのに君は、それをここで確かめようとしてる」
シオンは、俺をまっすぐに見た。
「わたしたち、同じことをしてるんだよ。賭けてるものが違うだけ」
◇
風が、二人の間を吹き抜けた。
俺は、すぐには言い返せなかった。その通りだったからだ。俺も、自分が知らない結末に全部を賭けている。
だが。
「……一つだけ、違います」
「何が?」
「俺が賭けてるのは、俺の命じゃない。ここにいる全員が、自分で賭けてるんです。リーゼさんも、マルタさんも、ガイさんも。全員、自分で選んで、あの谷に立った」
俺は崖の下を指差した。
「でも、あなたが賭けてるのは、他人の命だ。誰にも聞かずに、勝手に。――そこが、違います」
シオンは、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく笑った。
「……そっか。そうだね」
彼女は立ち上がり、外套の懐から、一冊の帳面を取り出した。
表紙の角が擦り切れた、粗い紙の帳面。俺が前世の記憶を頼りに、死ぬはずの人たちの名前を書き連ねた――あの帳面だ。
「でも、約束は約束。『勝ったほうがもらう』って言ったよね」
シオンは帳面を胸に抱いたまま、崖の縁へ一歩下がった。
「勝負は、まだ終わってないよ。この谷の底には、三本目の柱がある。今日この谷で流れたものを、全部あの柱に注げば――」
彼女の右手が、青白く光り始めた。
「――答え合わせ、しようか」
足元の岩が、地の底から彼女に応えるように、低く、重く唸った。




