第71話 灰の峡谷(六) 勝鬨
【幕間 ルカ】
鐘の音を聞いた瞬間、ルカは仮面を外した。
「――全軍、前へ」
峡谷の東。帝国軍の本陣のさらに後方、誰も警戒していなかった丘の陰に、皇帝に忠誠を誓う騎兵三千が伏せていた。病から回復した父帝が、密かにルカへ預けた兵だ。
「狙いは第一王子ゼノンの本陣のみ。王国兵には指一本触れるな。帝国の兵も、降る者は斬るな」
「殿下、それでは手加減が過ぎます!」
「手加減ではない」
ルカは馬上で剣を抜いた。
「この谷で死ぬはずだった者を、一人でも多く生かして帰す。――あの兵士Cと、約束したのだ」
角笛が鳴り響く。三千の騎兵が、丘を駆け下りた。
◇
戦場の空気が、一瞬で変わった。
背後を突かれたゼノンの軍は総崩れになった。王国軍を挟み撃ちにするはずが、自分たちが挟まれたのだ。
「バルド将軍より伝令! 全軍、押し上げろとのこと!」
「よぉし、聞いたか野郎ども! 前へだ、前へ!」
第七の古参たちが雄叫びを上げる。霧の中、王国兵と帝国の騎兵が、同じ方向へ駆けていく。
俺とリーゼは隘路を抜け、本陣へ合流した。
「来たか、兵士C!」
バルド将軍が熊のような笑顔で迎えた。
「あの仮面の皇子、本当に来おった。わしは半分も信じとらんかったぞ!」
「俺は全部信じてました」
「ふはは、若いのう!」
◇
ゼノンの本陣は、峡谷の東の高台にあった。
俺たちがたどり着いた時、そこではすでに、二人の皇子が剣を交えていた。
「ルカ……! 貴様、父上を誑かして……!」
「誑かしたのは兄上のほうだ。宮廷魔導師の甘言に乗り、両国の兵を灰に変えようとした」
第一王子ゼノンは、ルカより一回り大柄な男だった。手に握っているのは、先端に青い宝玉を埋め込んだ杖。魔導機兵を操る、制御の杖だ。
「機兵ども! この者を殺せ!」
ゼノンが杖を掲げる。谷のあちこちで、残った機兵が一斉にこちらを向いた。
「ルカ殿下! その杖です!」
俺は叫んだ。原作で、ルカが帝都の玉座の間で最後に砕いたもの。機兵の心臓と繋がった、ただ一つの鍵。
「わかっている」
ルカが踏み込んだ。
速い。ゼノンが杖で受けようとした瞬間、ルカの剣は軌道を変え、杖の宝玉だけを正確に打ち抜いた。
澄んだ音が響き、宝玉が砕け散る。
谷じゅうの機兵が、糸の切れた人形のように、その場で動きを止めた。
「なっ……」
呆然とするゼノンの喉元に、ルカの剣先が突きつけられた。
「兄上。降伏を」
「……殺さぬのか」
「父上の前で、裁きを受けていただく。それが帝国の掟だ」
ゼノンは膝から崩れ落ちた。帝国の騎兵たちが、彼の両脇を固める。
◇
高台から谷を見下ろすと、霧が少しずつ薄れ始めていた。
動かなくなった機兵の間を、兵士たちが歩いている。王国の兵も、帝国の兵も。誰かが誰かに手を貸し、肩を貸し、水筒を渡している。
「……終わったのか」
リーゼが呟いた。
「まだです。最後の仕上げが」
俺は本陣の物見台を見上げた。
そこに、大きな背中が立っていた。ガイだ。鐘の綱を両手で握り、こちらを見下ろしている。
俺は大きく腕を振った。
ガイが、にやりと笑った。
ゴォォン――ゴォォン――ゴォォォン――!
鐘が鳴った。さっきよりも、ずっと高らかに。
「勝鬨だああああっ!」
誰かが叫んだ。それをきっかけに、谷じゅうから歓声が湧き上がった。
剣を掲げる者。抱き合う者。その場にへたり込んで笑う者。ピートが泣きながら飛び跳ねている。第七の古参たちが、帝国の騎兵と肩を叩き合っている。
バルド将軍が、腕を組んで頷いた。
「うむ。鐘というのはな、勝った時に鳴らすもんだ」
原作で全滅の合図だった鐘が、今日、勝利を告げている。
俺は鐘の音を聞きながら、隣のリーゼを見た。彼女も、俺を見ていた。
「生きているな、トーマ」
「副司令こそ」
リーゼは何も言わず、俺の肩に拳をこつんと当てた。
それから――ふと、彼女は顔を上げた。
峡谷の西の崖の上。薄れゆく霧の中に、ひとつの人影が、まだ立っていた。




