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第70話 灰の峡谷(五) リーゼの場所

本陣へ戻る途中、ノエルが足を止めた。

「……副司令の声がしない」

「何?」

「本陣の指揮の声が、将軍だけになってる。副司令の声は――もっと奥。谷の、細くなってるほうです」

心臓が、嫌な音を立てた。

谷の細くなっているほう。両側から岩壁が迫り、人が三人並べばいっぱいになる隘路。

原作で、リーゼ・アーベントが死ぬ場所だ。

◇

霧の中を転がるように走った。

隘路の手前で、負傷兵たちが後方へ運ばれていくのとすれ違う。その流れの一番奥に、一人だけ、逆を向いて立つ背中があった。

赤い髪。細い剣。指先に、頼りない小さな炎。

隘路の向こうから、魔導機兵が三体、地面を揺らして迫ってくる。リーゼはたった一人で、負傷兵たちが逃げる時間を稼いでいた。

――同じだ。

画面の中で何十回も見た構図。何十回も、コントローラーを握りしめて見送った背中。

「副司令!」

俺の声に、リーゼが振り返った。

その顔は、原作のスチルと寸分違わなかった。煤に汚れた頬。覚悟を決めた、静かな目。

そして彼女の唇が、動いた。

「――行け。生きろ。それが」

息が止まった。

その台詞を、俺は知っている。知りすぎている。

だが。

リーゼの言葉が、そこで途切れた。

彼女は唇を噛み、まるで自分の口から出た言葉に驚いたように、目を見開いた。それから――ふっと、笑った。

「……いや。違うな」

リーゼは剣を構え直し、俺に向かって顎をしゃくった。

「トーマ、隣に来い」

◇

「はいっ!」

俺はリーゼの隣に飛び込んだ。

「いま、言いかけたな。お前が言っていた、私の最後の台詞」

「……はい」

「口が勝手に動いた。気味が悪い。だが、途中で気づいた」

迫る機兵を睨みながら、リーゼは言った。

「私はもう、一人でここに立っていない」

先頭の機兵が腕を振り上げる。

「炎は」

「蝋燭一本分だ」

「十分です。膝の継ぎ目、魔力の管。そこだけ焼いてください」

「――了解した!」

リーゼの指先から、細い炎が針のように伸びた。大きく燃やす炎ではない。一点だけを焼き切る炎。

膝の継ぎ目が赤く焼け、機兵の動きが鈍る。その一瞬に、俺は折れた槍の穂先を突き込んだ。

腰で突く。足の裏から、全部の重さを。

一体目が崩れる。

「次!」

「右から来ます!」

二体目。リーゼが焼き、俺が突く。三体目は膝を焼かれたまま倒れ込み、隘路の入り口を自分の体で塞いだ。

息が切れる。腕が痺れる。それでも、隣に彼女がいる。

「……悪くない連携だ」

「訓練の成果です」

「私が教えた覚えはないぞ」

「毎朝、見てましたから」

リーゼが小さく吹き出した。こんな時に。こんな場所で。

原作の彼女が死んだ、この場所で。

◇

その時、谷の上のほうから、鐘の音が響いた。

ゴォォン――ゴォォン――

重く、腹に響く音。本陣の物見台に据えた、撤退の鐘。

原作では、偽の命令で鳴らされ、王国軍を全滅に導いた鐘だ。

だが今日、あの鐘を鳴らしているのはガイだ。そしてバルド将軍は全軍に、事前にこう伝えている。

『鐘が鳴っても下がるな。あれは援軍への合図だ。鐘が鳴ったら――前へ出ろ』

「来るぞ、トーマ」

「ええ。ルカ殿下の――」

言いかけた時、背筋に冷たいものが走った。

霧の中。俺の真後ろ。足音がしない。気配だけがある。

振り向く暇はなかった。

ヒュン、と空気を裂く音がして――

俺の背後で、誰かが呻き、倒れた。

振り向くと、黒装束の男が短剣を握ったまま地面に崩れていた。その肩に、一本の矢が深々と突き立っている。

矢羽根の根元に、赤いリボンの切れ端が結んであった。

霧の向こうで、弓を下ろす影が見えた。

「……言ったでしょう、あの人に」

ノエルの声だった。

「俺が射つのは、あんたの後ろに立つ奴だって」

鐘が鳴ったら、トーマを射て。シオンがノエルに下した命令。彼はその通り、鐘が鳴った瞬間に弓を引いたのだ。俺の後ろに立つ、ゼノンの刺客に向けて。

「ノエル……!」

「礼は後で。それより、聞こえますか」

ノエルが東の空を指差した。

霧の向こうから、地鳴りのような音が近づいてくる。蹄の音。何千という、蹄の音。

そして、角笛。

帝国の、角笛だった。

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