第69話 灰の峡谷(四) マルタの盾
「マルタさん!」
叫んだ時には、もう遅かった。
鉄の腕が振り下ろされる。マルタさんは避けなかった。避ければ、後ろにいるピートと新兵たちに当たるからだ。
槍の柄で受け止める。鈍い音。柄が折れ、そのまま鉄の拳が、彼女の左肩から脇腹へとめり込んだ。
マルタさんの体が、枯れ枝のように岩場へ叩きつけられた。
「隊長ぉぉっ!」
ピートの悲鳴が響く。機兵は止まらない。二撃目のために、再び腕を持ち上げる。
「ガイさん!」
「おおおおおっ!」
ガイが大盾ごと、機兵の胴体に体当たりした。巨体同士がぶつかり合い、機兵がよろめく。
その一瞬で十分だった。
俺は折れたマルタさんの槍の穂先を拾い、機兵の懐へ滑り込んだ。
『槍ってのはね、腕で突くんじゃない。腰で突くんだよ。足の裏から、全部の重さを穂先に乗せな』
砦の裏庭で、何百回も聞かされた声。
狙うのは膝の継ぎ目。魔力の管が走る、唯一装甲の薄い場所。
「――っ!」
腰を落とし、地面を蹴る。足の裏から、全部の重さを。
穂先が、膝の継ぎ目に深々と突き刺さった。青白い火花が散り、機兵の片足が崩れる。
「ガイさん、今!」
「任せろおおっ!」
ガイが倒れかけた機兵の腕を抱え込み、全身の筋肉を軋ませて持ち上げた。そして、そのまま崖下へと投げ飛ばした。
鉄の塊が谷底で砕ける音が、霧の向こうから響いた。
写し身は使っていない。今のは、マルタさんに叩き込まれた、俺自身の槍だ。
◇
「隊長! 隊長っ!」
ピートがマルタさんにすがりついていた。
俺は膝をつき、彼女の体を確かめた。左肩が砕けている。脇腹からの出血がひどい。呼吸が浅く、速い。
「……おや。トーマ、かい」
マルタさんが薄く目を開けた。口の端から血が流れている。
「喋らないでください」
「新兵どもは……無事、かい」
「全員無事です。マルタさんが守ったから」
「そうかい……なら、いいさ」
マルタさんは笑った。いつもの、豪快な笑い方ではなかった。
「なあ、トーマ。あんたの帳面の……あたしの名前」
「…………」
「消す約束、忘れんじゃないよ」
それだけ言うと、マルタさんの目が閉じた。
「嫌だ……嫌だよ隊長! 俺、まだ一回も一本取ってないのに!」
「ピート、泣くのは後だ!」
ガイが怒鳴った。その声も震えていた。
「運ぶぞ。救護所まで、俺が担ぐ」
「ガイさん、肩を動かさないように。ノエル、道を」
「はい! 灯りの方角、こっちです!」
◇
ガイはマルタさんを抱えたまま、霧の中を全力で走った。あの巨体が、まるで重さを感じていないかのように。
救護所のランタンが見えた瞬間、セラが目を開けた。
「――マルタさん!」
台の上に寝かされたマルタさんを見て、セラの顔から血の気が引いた。だがそれは一瞬だった。
「リタ、湯と布を。ドーラさん、止血の薬草を全部ください」
「あいよ。ほら、これを傷口に詰めな。熊の脂と混ぜてある」
ドーラ婆さんが袋を投げ渡す。セラは迷いのない手つきで、砕けた肩を固定し、脇腹の傷を洗い、縫い始めた。砦で何百人もの兵士に教えてきた、祈らない手当てだ。
しかし、出血は止まらなかった。
セラの手が、止まった。
彼女の掌に、うっすらと白い光が灯り始める。
「セラ」
俺はその手首を掴んだ。
「離してください、トーマさん。祈れば、塞がります」
「その代わりに、あなたの命が削れる」
「少しだけです! 少しだけなら――」
「セラ」
俺は彼女の目をまっすぐに見た。
「マルタさんは、誰かの命と引き換えに助かって、喜ぶ人ですか」
セラの唇が、震えた。
「……いいえ。きっと、頭を叩かれます」
「でしょう。だから、あなたの手で助けてください。祈りじゃなく、あなたが教えてきた、その手で」
セラの掌の光が、静かに消えた。
「――はい」
彼女は深く息を吸い、再び針を取った。ドーラ婆さんが隣に座り、皺だらけの手で傷口を押さえた。
「いい子だ。焦るんじゃないよ。血の道は、一本ずつ閉じるんだ」
長い、長い時間だった。
やがて、セラが額の汗を拭った。
「……血が、止まりました」
「マルタさんは……!」
「まだ、目は覚めません。でも、息はしています。あとは、マルタさん自身の力です」
ピートがその場に崩れ落ちて、声を上げて泣いた。ガイが、その頭を大きな手でがしがしと撫でた。
俺は立ち上がった。
拳が、震えていた。恐怖ではない。怒りでだ。
「ガイさん。ノエル」
「おう」
「はい」
「この戦い、終わらせに行きましょう。――マルタさんが目を覚ました時、全部終わってるように」




