第68話 灰の峡谷(三) 灰の霧
灰色の霧は、足首から膝へ、膝から胸へと、あっという間にせり上がってきた。
三歩先の兵士の背中が、ぼやけて消える。剣戟の音だけが、どこからともなく響いてくる。
「なんだ、これは……!」
「前が見えねえぞ!」
あちこちで怒号が上がる。俺は口元を袖で覆いながら、霧の匂いを嗅いだ。
焦げた紙のような匂い。大聖堂の地下、あの黒い柱の前で嗅いだのと、同じ匂いだ。
――灰の王の、吐息。
原作では、この霧が出るのは最終章の「黄昏の日」だけだった。峡谷の戦いで出たことなど、一度もない。
「トーマ!」
霧の向こうから、リーゼの声がした。駆け寄ってきた彼女は、肩で息をしている。中央の坑道を崩すために、溜めていた炎をすべて吐き出したのだ。指先に灯る火は、蝋燭ほどの大きさしかない。
「この霧、焼けるか」
「……今の私では無理だ。焼いても焼いても、地面から湧いてくる」
悔しそうに唇を噛むリーゼの横で、ノエルが弓を構えたまま耳を澄ませていた。
「副司令。機兵の足音、止まってません」
「何?」
「あいつら、霧の中でも迷わず動いてる。人間の足音は右往左往してるのに、機兵の足音だけは、まっすぐです」
俺は背筋が冷たくなった。
魔導機兵は、目で敵を見ていない。魔力の熱で、生き物の位置を捉えている。原作の攻略本の隅に、小さくそう書かれていたのを思い出した。
つまりこの霧は、人間だけを盲目にする。
「最悪だ……」
◇
「みんな、こちらへ! 灯りのほうへ来てください!」
凛とした声が、霧を貫いた。
振り向くと、ぼんやりとした橙色の光がいくつも揺れていた。本陣の後ろに張った救護所――セラが、ありったけのランタンを並べ、高く掲げさせていたのだ。
「怪我をした人は灯りを目指して! 歩けない人は、声を出してください! 私が聞きます!」
セラは目を閉じていた。見えないなら、見なければいい。彼女は人の「声」を聞く聖女だ。霧の中で上がる呻き声を一つ一つ拾い、リタと救護兵に指示を飛ばしていく。
「右手、二十歩先! 足を挫いた若い兵士!」
「は、はいっ!」
ランタンの列は、まるで霧の海に浮かぶ灯台だった。迷っていた兵士たちが、少しずつ光のほうへ集まっていく。
「……さすがだな」
リーゼが小さく呟いた。俺も頷いた。祈らなくても、あの人は聖女だ。
◇
「トーマ。第七は」
リーゼの問いに、俺は南を睨んだ。
南の坑道は、第七の背後に口を開けた。マルタさんは五体の機兵を相手にしていたはずだ。そこへこの霧。
「行きます」
「私も――」
「副司令は本陣に残ってください。将軍と指揮を。炎がない今、前に出るべきじゃない」
リーゼは一瞬、何か言いたげに口を開き、そして閉じた。
「……わかった。ガイを連れて行け。ノエル、トーマの耳になれ」
「了解です」
「トーマ」
駆け出そうとした俺の袖を、リーゼが掴んだ。
「必ず、戻れ」
「はい」
◇
霧の中を、俺とガイとノエルは走った。
「左、岩。三歩先で右に曲がって」
ノエルの声を頼りに、足を運ぶ。ガイが大盾を前に構え、何かにぶつかるたびに力ずくで押しのけた。
その時だった。
『――ねえ、聞こえる?』
声が、頭の中に直接響いた。
俺は思わず足を止めた。忘れようもない、あの穏やかな声。
見上げると、霧が薄くなった一瞬、峡谷の崖の上に人影が見えた。肩までの黒髪が、灰色の風に揺れている。
シオンだ。
『ごめんね、トーマくん。坑道は三本とも潰されちゃった。君たち、本当に強くなったね』
その声には、悪意の欠片もなかった。本当に感心しているのだ。だからこそ、ぞっとする。
『でもね、この霧は止められないよ。谷の底の柱が、もう目を覚ましちゃったから』
「……あんたが起こしたのか」
『半分だけ。残りの半分は、この谷で流れた血が起こしたの。原作より少ないけど、それでも、ゼロじゃないから』
崖の上の影が、首を傾げた。
『ここから先は、わたしも知らない章だよ。一緒に読もう?』
霧が再び濃くなり、影は消えた。
「トーマ!」
ノエルが叫んだ。
「前方、金属の音! 人の声も――マルタ隊長です!」
俺たちは霧を突き抜けた。
視界が開けた先。崩れた岩場に、第七の新兵たちが身を寄せ合っていた。その一番前に、槍を構えた背中が一つ。
マルタさんだった。
そして、その頭上に。
鉄の腕を高々と振り上げた魔導機兵が、立っていた。




