第67話 灰の峡谷(二) 知らない穴
午後の最初の鐘が、帝国の陣で鳴った。
谷の東の入り口から、地鳴りが近づいてくる。
鉄の巨人だった。人の倍もある背丈の、青い刻印を全身に刻まれた鉄の人形。それが二十、重い足音を立てて、谷底を進んでくる。
魔導機兵。
「――来たぞ、小僧!」
「はい。……足です。刻印は胸と背中だけで、膝の関節には入っていない」
二万時間。この鉄の人形には、何百回と部隊を潰された。そのたびに、弱点を探した。
王国軍の前列から、長い鉤付きの縄が、一斉に投げられた。鉄の膝に絡みつく。百人がかりで引く。
一体、また一体と、鉄の巨人が谷底に転がっていく。そこへ、ガイの小隊が大槌を担いで飛びかかった。胸の刻印を叩き割る。青い光が、火花を散らして消えていく。
「――よしっ! 一つずつだ! 焦るな!」
ガイの声が、地鳴りを押し返していた。
◇
そして――西の崖が、崩れた。
いや、崩れたのではない。崖の三か所から、同時に土煙が吹き上がったのだ。
坑道の出口。
北の一つは、ルカの手紙にあった場所だ。そこには、バルド将軍が最も厚い盾の列を並べ、油を染み込ませた藁束を山のように積んで待たせてある。
「――火を放て!」
出口から顔を出した鉄の巨人の前で、藁の山が炎を吹き上げた。狭い坑道の中で、鉄の体は身動きが取れない。無理やり押し出された先頭が、燃える藁の中で足を取られ、後ろの仲間を左右に押しつぶしていく。
――そこまでは、よかった。
「小僧! あとの二つはどこへ出る!」
「……」
答えられなかった。
知らない。
あの二つの穴は、二万時間のどこにもなかった。どこへ続いて、何が何体出てくるのか。その先の地形も、何も――
「――中央の穴は、本陣の裏へ出る!」
叫んだのは、俺ではなかった。
南の崖の上から、ノエルが身を乗り出して叫んでいた。
「土煙の流れで分かる! 穴の中の風が、こっちに抜けてる! ……南の穴は、――第七の後ろだっ!」
狩人の目だった。
地形の知識じゃない。風と土煙と、山の息を読む目だ。
「――リーゼさん!」
「分かっている!」
リーゼは、もう馬を返していた。
「中央の穴は私が塞ぐ! トーマ、第七へ行け!」
◇
本陣の裏手の岩場に、土煙を上げて新しい穴が口を開けた。
その穴の前に、リーゼは一人で馬を降りた。
剣を、地面に突き立てる。刃に、赤い刻印が走る。
「――炎よ」
孤児院の階段で、炎を吸い込んだ剣。儀の間で、祈りの糸を焼いた剣。
その剣が、今度は、今まで吸ってきた全ての炎を、一度に吐き出した。
穴の入り口を支えていた古い木の梁が、一瞬で白く燃え上がり――崩れ落ちた。
岩と土が、穴を内側から弁を閉じるように塞いでいく。その奥で、鉄の巨人の悲鳴のような軋みが、地の底へと沈んでいった。
◇
第七の陣の後ろでは、もう戦いが始まっていた。
鉄の巨人が五体。その周りで、槍を構えた第七の兵が、後ずさりながら円を組んでいる。
その円の真ん中で、白髪まじりの女が、槍を振り回して怒鳴っていた。
「――膝だよ! あの小僧が言ってただろう、膝を狙いな!」
マルタだった。
そして――山の向こうから、灰色の何かが、ゆっくりと谷へ流れ込んできた。
霧だった。
原作で、午後に谷底を埋める、あの灰色の霧。
ただし、原作では、東の風上から来た。
今日の霧は――谷の底の、地面の割れ目から、湧き出していた。




