第66話 灰の峡谷(一) 知っている朝
角笛が鳴ったのは、日の出から半刻後だった。
――原作どおりだ。
谷の東の入り口に、帝国軍の黒い旗が、波のように広がっていく。その後ろの小高い丘の上に、金色の鎧の男と、藍色の外套の女が並んでいるのが、ここからでも見えた。
第一王子ゼノン。そして、シオン。
「――小僧。最初はどう来る」
本陣の天幕の前で、バルド将軍が言った。俺は、地図の上の、谷の入り口を指した。
「歩兵三千が、谷底をまっすぐに。ただし、弓兵は伏せてあります。北の岩棚に二百。王国軍が前に出たところを、横から射ちます」
「では、前には出ん。……北の岩棚だな」
将軍が、太い指で髭をしごいた。
「第七の弓兵は、どこだ」
「南の崖の上です。……北の岩棚は、ちょうどそこから丸見えです」
◇
帝国の歩兵が、谷底を押し寄せてきた。
王国軍は、前に出なかった。盾を並べ、槍をそろえ、ただその場で待った。
北の岩棚から、矢は飛んでこなかった。王国軍が前に出ないからだ。弓兵たちは、岩の陰で、何かを待ちくたびれている。
その岩棚に――南の崖の上から、矢の雨が降り注いだ。
「――射て!」
第七の弓兵の先頭で、ノエルが叫んでいた。その赤いリボンが、秋の風になびいていた。
岩棚の帝国弓兵が、崩れるように逃げ出していく。
「……がははっ。当たりだ。小僧、次は」
「次は、騎兵です。南の浅瀬を渡って、本陣の左を突きます。……浅瀬の向こう岸は、ぶかぶかの泥です」
「結構」
将軍が右手を上げる。伝令が駆け出していく。
帝国の騎兵が浅瀬を渡り切ったところで、騎馬の脚が、次々と泥に沈んだ。そこへ、王国の槍兵が、左右から音もなく近づいていく。
「――下馬して武器を捨てろ! 命までは取らん!」
リーゼの声が、谷に響いた。
――殺さなくていい。
帝国の兵の半分は、飢饉の村から無理やり集められた農民だ。ルカの手紙に、そう書いてあった。
騎兵は、一人、また一人と、剣を泥の中に捨てていった。
◇
昼までに、帝国軍の攻めは三度あった。
三度とも、俺は知っていた。どこから、何人が、どんな順番で来るのか。
三度とも、王国軍は、一歩も退かなかった。
「……小僧。お前の夢は、下手な斥候より、ずっと当てになるな」
将軍は、腰の水筒の水を、一口で飲み干した。
「負傷者は」
「百二十。死者は……ゼロです」
医務の天幕から駆けてきたリタが、息を切らしながら報告した。
「聖女様が、『全員生きてる、今のところは』って……!」
本陣の周りで、小さな歓声が上がった。
けれど、俺は、笑えなかった。
――ここまでは、知っている。
原作でも、午前中は王国軍が優勢なのだ。全滅は、いつも、午後から始まる。
東から押し寄せる、魔導機兵の部隊から。
そして今日は――原作にはない西の坑道の入り口が、三つある。
俺は、丘の上を見上げた。
藍色の外套の女が、こちらを見て、小さく手を振った気がした。
まるで、「ここからが本番だよ」と、楽しそうに告げるように。




