第65話 峡谷前夜
野営地には、無数の焚き火が燃えていた。
一万二千の兵の、一万二千の夜。そのどれもが、原作では、明日の夕方には半分以上が消えているはずの夜だった。
俺は、一つひとつの焚き火を、そっと回って歩いた。
◇
「――おい、トーマ」
第七の焚き火の前で、ガイが一枚の紙を眺めていた。ちょっと古びて、何度も折りたたまれた紙だ。
「妹からの手紙だ。……『お兄ちゃん、小隊長になったって本当? 村中に自慢しちゃった』だとよ」
「……読めたんですか」
「リタに読んでもらった。……三回」
ガイは、紙をたたんで、胸当ての内側にしまった。辞令と並んで、そこにあるのだろう。
「……鐘は、任せとけ」
「はい」
「お前は、お前の場所にいろ。……副司令の、隣にな」
◇
「――はい、これ」
医務の天幕の前で、セラが小さな布の包みを俺に押しつけた。
中には、乾いた薬草と、清潔な布が一巻き。砦の全員に、同じものを配って回っているのだという。
「祈りは、もう捧げない。……でも、これは灯しておくわ」
「……ありがとうございます」
「わたしの分は、一個大きいのにしたの」
セラは、つんとすました。
「半分借りてる人には、利息もつけないとね。……だから、生きて返しに来て。遅いって言わせないで」
◇
マルタは、一人で槍の穂先を磨いていた。
俺が隣に座ると、何も言わずに、小さな革袋を渡してきた。中身は、生姜の酒だった。
「……明日の夜には、消しておくれよ」
「はい」
「あたしの名前だけじゃないよ。……あの子の名前も、必ずだ」
マルタは、野営地の一番奥の天幕を、顎でしゃくった。
「……行ってきな。寝る前に、会っておきたい顔があるんだろ」
◇
リーゼは、天幕の外の岩に腰かけて、峡谷の方を見ていた。
月のない夜だった。それでも、無数の焚き火の光が、彼女の横顔を赤く照らしていた。
俺は、何も言わずに、その隣に座った。
「……来たか」
「はい」
しばらく、二人とも黙っていた。
遠くで、誰かが故郷の歌を小さく歌っていた。その歌を、別の焚き火の誰かが、少しずれた節で引き取っていく。
「……トーマ」
「はい」
「全部終わったら、話がある」
……心臓が、一つ大きく跳ねた。
「……俺も、です」
「そうか」
リーゼは、峡谷を見たまま、少しだけ笑った。
「なら、先に話すのは私だ。……一番に私に話せと言ったのは私だからな。今度は、私が一番だ」
「……それは、ずるくないですか」
「司令代理の特権だ」
そう言って、リーゼは、俺の肩にそっと頭を乗せた。
王都の屋上で、母の手帳を読んだあの朝と、同じ重さだった。
◇
自分の天幕に戻る途中。
弓兵の天幕の前で、ノエルが一人、矢を選んでいた。
一本ごとに羽根を確かめ、矢じりを確かめ、矢筒に戻していく。狩人の手つきだった。
「……トーマ」
顔も上げずに、ノエルが言った。
「鐘が鳴ったら、俺はあんたの一番近くにいる。……あの人との約束どおりにな」
「……そうか」
「だから、あんたの背中は、俺が見てる」
ノエルは、最後の一本を矢筒に戻して、ようやく顔を上げた。
「――俺が射つのは、あんたの後ろに立つ奴だ」
弦の端で、赤いリボンが、焚き火の光に揺れていた。
◇
その夜、俺は一睡もしなかった。
居眠りをしないためではなかった。
無数の焚き火の、一つも消えない夜明けを、この目で見ておきたかったからだ。
東の空が、白み始めた。
何百回と見た、あの朝だった。




