第64話 進軍
夏は、あっという間に過ぎた。
砦の中庭では、毎日、セラの「手当ての稽古」が開かれた。血の止め方。骨を添え木で固めるやり方。熱を下げる草の見分け方。
「――そうじゃないわ。そんなにきつく縛ったら、腕が腐るでしょう」
「す、すみません聖女様ぁ……!」
ピートが、包帯だらけの自分の腕を抱えて叫んだ。
その後ろで、オルグが黙々と、新兵の足を添え木で固めていた。実に手間よく、美しい結び目だった。セラが「……一番上手いのはあなたね」と言うと、オルグは片目をそらして耳を赤くした。
――小さな聖女。
セラの言ったとおりに、砦には少しずつ、祈らない聖女たちが増えていった。
◇
秋のはじめ。王都から、長い荷馬車の列が届いた。
穀物。薬。丈夫な盾。そして、一通の手紙。
『――峡谷へ向かうすべての部隊に、平民兵と騎士の区別なく、同じ量の糧食と薬と盾を配る。これは、陪下のご意向である。――ハインリヒ・アーベント』
「……父上らしい。一行も余計なことを書かない」
リーゼは、そう言いながら、手紙を大切そうにたたんで、胸当ての内側にしまった。
手紙の末尾には、本当はもう一行だけ、小さな字があった。俺はそれを、たまたま見てしまっていた。
『――スープを用意して待つ』
◇
そして、その日が来た。
黒狼砦の正門の前に、五百の兵が並んでいた。砦の半数だ。
先頭には、司令代理リーゼ・アーベント。その後ろに、第七を率いるマルタ。小隊長のガイ。弓兵の列の中に、赤いリボンを弦に結んだノエル。荷馬車の上には、薬草の袋に埋もれたセラと、ドーラ婆さんと、リタ。
そして――俺。
砦に残る半数の兵が、東壁の上から一斉に槍を掲げた。
「――生きて帰れよぉぉぉ!」
「約束だぞぉ!」
「一人も欠けずになぁ!」
リーゼが、馬上で剣を抜き、高々と掲げた。
刃に、赤い刻印が走る。炎が、秋の朝の空に一筋、まっすぐに立ち上った。
「――出発する!」
◇
灰の峡谷までは、五日の道のりだった。
途中の街道で、王国中から集まった部隊が、一つ、また一つと合流してくる。三日目には、バルド将軍の本隊が加わった。総勢、一万二千。
「――がははは! 小僧、生きておったか!」
将軍は、馬の上から俺の背中をばしんと叩いた。一瞬、馬から落ちかけた。
「鐘は、手はずどおり前線に置いた。……それとな、小僧。西の崖の坑道だが」
将軍の声が、少しだけ低くなった。
「斥候を出した。……坑道の入り口は、三つあったそうだ」
――三つ。
ルカの手紙にあったのは、一つだけだった。
ゲームには、一つもなかった。
「……大丈夫です」
俺は、自分にも言い聞かせるように言った。
「俺の夢には、一つも出てこなかった。……でも、もう夢だけで戦ってるわけじゃないので」
将軍は、しばらく俺の顔を見ていた。
それから、髭の奥で、にかっと笑った。
「よかろう。では、夢の外のことは、夢の外のやり方でやるとしよう」
五日目の夕方。
丘を越えた先に、灰色の岩肌をむき出しにした、細長い谷が口を開けていた。
灰の峡谷。
二万時間の中で、何百回と全滅を見た場所だった。




