第63話 嘘のない声
【幕間 ノエル】
その夜、東壁の下の物置に、あの人が来た。
灯りは持っていなかった。それなのに、あの人の周りだけ、ぼんやりと青白く光っていた。地下牢でトーマが見たっていう光だ。
「――久しぶり、ノエル君。背、伸びたね」
シオン様は、昔と同じ声で笑った。
リンデ村が焼けた次の朝。灰の中で座り込んでいた俺の前にしゃがんで、「妹さんは、僕が助けたよ」と言ってくれた時と、まったく同じ声だった。
俺は、膝をついて頭を下げた。
――声を、震わせるな。
狩人は、獣の前で息を乱さない。父ちゃんに、最初に教わったことだ。
「……リナは、元気ですか」
「元気だよ。この前、焼き菓子を作ってくれたの。ちょっと焦げてたけどね。……お兄ちゃんに食べさせたいって、言ってた」
胸の奥で、何かがぎしりと音を立てた。
この人は、たぶん本当のことを言っている。リナは元気で、焼き菓子を焦がして、俺に食べさせたいと言ったのだろう。
そして、この人は、父ちゃんと母ちゃんを焼いた。
「峡谷のことだけどね」
シオン様は、物置の木箱に腰かけて、足をぶらぶらさせた。子どもみたいだった。
「撤退の鐘が鳴った時。……その時、あの子のいちばん近くにいてほしいの。鐘が鳴ったら、すぐに射って。それで、全部おしまい。リナちゃんは、その日のうちに君のところへ帰ってくる」
「……どうして、鐘が鳴った時なんですか」
「そのほうが、物語として綺麗だから」
シオン様は、何でもないことのように言った。
「原作では、鐘は鳴らないの。鳴らないまま、みんな死ぬ。……あの子は、その鐘を鳴らそうとしてる。だから、鳴った瞬間に、あの子の物語が終わる。ね、綺麗でしょう」
俺は、頭を下げたまま答えた。
「……はい」
「いい子だね」
冷たい指が、俺の頭をそっと撫でた。
あの朝と、同じ手だった。
◇
翌朝。使節の一行は、王都へ向けて砦を発った。
正門の前で、シオンは馬上から振り返り、見送りに並んだ俺たちに向かって、優雅に一礼した。
「お世話になりました。……秋に、またお会いしましょう」
灰色の馬が、街道の向こうへ遠ざかっていく。
その背中が見えなくなるまで、俺の隣で、セラが一言もしゃべらなかった。
「……セラ?」
「……あの人の声」
セラの顔は、紙のように白かった。
「一つも、濁っていなかったの。……昨日の夕食の時も。中庭のお茶の時も。今の挨拶も。一度も」
「嘘を、ついていないってことですか」
「そう。……あの人は、本気なの。人がたくさん死ぬ物語が、本気で美しいと思ってる。誰かを騙そうとしているんじゃない。全部、本気で、優しい声で言ってる」
セラは、自分の両腕を抱いた。
「嘘をつく人より、ずっと怖いわ。……嘘なら、見抜けば止められる。でも、本気の人は、何を見抜いても止まらない」
◇
「――トーマ」
その夜、司令室で、リーゼが言った。
「あれが、『S』だな」
「……どうして」
「お前の顔を見ていれば分かる。……それに、私の目にも分かった。あの女は、食堂でずっと私を見ていた。剣士の目でも、敵の目でもない。……舞台の上の役者を見る目だった」
リーゼは、峡谷の地図の、狭い谷の道に、指を置いた。
「あの女の物語では、私はここで死ぬのだろう」
「……はい」
「なら、あの女の物語を、ここで終わらせる」
扉が、こんこん、と鳴った。
入ってきたのは、ノエルだった。目の下に、ひどい隈があった。
「……報告です。あの人から、命令を受けました」
ノエルは、昨夜のことを、一言残らず話した。鐘が鳴ったら、トーマを射て、と。
話し終えると、ノエルは、短弓の弦に結んだ赤いリボンを、ぎゅっと握った。
「……あの人の手、あの朝と同じでした。優しかった。……それが、一番、気持ち悪かった」
リーゼは、しばらく黙っていた。
それから、ノエルの肩に、包帯の取れた右手を置いた。
「よく耐えた。……お前は、もう第七の兵だ」




