第60話 冬の稽古
「――腰が浮いてる!」
マルタの槍の石突きが、俺の腰をごつんと叩いた。
雪の中庭に、俺は無様に転がった。これで、今朝だけで十二回目だ。
「……すみません、もう一回」
「その言葉も十二回目だよ」
マルタは、槍を肩に担いだまま、白い息を吐いた。
写し身は、もう使えない。使えるのは、あと一度だけだ。
だから、俺は毎朝、リーゼとの剣の稽古の後に、マルタに槍を教わることにした。写し身で借りた技じゃない。自分の体で、一から覚える。
「いいかい。尾根道でも、狼の森でも、あんたはあたしの槍を写した。だから、形だけは体が覚えてる。……足りないのは、足だよ」
「足……」
「槍ってのは、腕で突くんじゃない。地面を踏んだ足で突くんだ。……あんたはいつも、足が地面から浮いてる。何か先のことばっか考えてる奴の足だ」
……それは、たぶん、槍の話だけじゃない。
俺は、雪の上に立ち上がって、もう一度槍を構えた。
足の裏で、凍った地面を、しっかりとつかむ。
「――そうだ。そのまま、前だけ見ろ」
突き出した槍が、初めて、マルタの槍を弾いた。
◇
稽古の後、兵舎の軒下で、二人で温めた酒を飲んだ。ドーラ婆さんが「薬だ」と言って、生姜をしこたま入れたやつだ。
「……隊長は、どうして、あの夜、俺の言うことを信じてくれたんですか」
ずっと、聞きたかったことだった。
初日の夜。警鐘を鳴らした新兵の言うことを、上官は誰も取り合わなかった。マルタだけが、耳を傾けてくれた。
マルタは、杯を両手で包んだまま、雪の中庭を眺めていた。
「……あたしには、息子がいたんだよ」
「……」
「十年前にね。十八で兵になって、最初の戦で死んだ。……前の夜、あの子は上官に言ったそうだよ。『明日の道は、谷が狭すぎる。伏兵がいたら全滅する』って」
マルタの声は、不思議なほど穏やかだった。
「上官は、笑って取り合わなかった。新兵の分際で、って。……次の日、その谷に伏兵がいた。あの子の言ったとおりにね」
雪が、音もなく降り続けていた。
「……だからあたしは、新入りの言うことだけは、笑わずに聞くことにしてるんだよ。……あの夜のあんたは、あの子と同じ顔をしてた」
――砦の三つの掟。三つ目。『あっちにいるトーマって新入りの夢の話は、笑わずに聞け』。
あれは、冗談じゃなかったのだ。
「……ゲームには、書いてなかったです」
「げえむ?」
「……俺の夢には、出てこなかったんです。隊長に、息子さんがいたことも。俺の言うことを信じてくれた理由も」
マルタは、しばらく俺の顔を見ていた。
それから、杯の中身を飲み干して、ふっと笑った。
「夢に出てこないことのほうが、たぶん、ずっと多いんだよ。……あんたは、これからそっちをたくさん知っていくんだね」
「……はい」
「そのためには、生きてなきゃいけないよ。……あたしも、あんたも」
マルタは、空の杯を俺の頭にこつんと載せて、立ち上がった。
「さ、もう一本だ。足を忘れるんじゃないよ」
◇
その冬、俺は一度も写し身を使わなかった。
代わりに、毎朝雪の中で転ばされ、毎朝立ち上がった。
リーゼは、剣の稽古の後、必ず東壁の上からそれを見ていた。セラは、俺が転ぶたびに、医務室の窓から傷に塗る薬草を投げて寄こした。ガイは、小隊の新兵たちと一緒に、飽きもせずに同じ稽古をしていた。
そして、東壁の下で、ノエルが的を射ていた。弦の端で、赤いリボンが揺れていた。
雪が溶け始めたのは、二か月後のことだった。
その朝、砦の物見塔から、角笛が鳴った。
帝国の旗を掲げた一行が、東の街道をゆっくりとこちらへ向かってくる。
和平の使節だった。




