第57話 狩人の夜
ノエルの足音は、本当に静かだった。
落ち葉を踏むのに、音がしない。枝をくぐるのに、葉が揺れない。狩人の息子だ。俺が後をつけられたのは、二万時間の間に、この森の地形を何度も歩き回ったからだけだ。
砦から半刻。森の奥の、崩れかけた古い見張り塔。
ゲームでは、第一章の寄り道で、宝箱が一つあるだけの場所だった。
その塔の根元に、馬が一頭、つながれていた。
◇
「――遅かったな」
塔の陰から、黒い外套の男が現れた。顔は、布で半分を覆っている。外套の胸元に、小さな徽章が光っていた。
片翼の鳥。
俺は、茂みの陰で息を殺した。
「……砦の兵の数と、峡谷へ出る部隊の割り振りだ」
ノエルが、折りたたんだ紙を男に差し出した。
「それと、撤退の鐘は、本陣じゃなくて前線に置くことになった。第七の大男が鳴らす」
「ほう。……あの方が喜ばれる。物語にない筋書きは、早めに知るに限るとな」
男は、紙を懐にしまった。それから、代わりに何かを、ノエルの手のひらに載せた。
赤い、小さな布切れだった。
子どもの髪を結ぶ、細いリボン。
「……リナは、元気なのか」
ノエルの声が、初めて震えた。
「元気だとも。あの方の館で、暖かい寝床で眠っている。……約束どおりだ。峡谷で、お前があの新兵を射止めれば、妹はお前のもとへ返される」
――妹。
『妹だけは、骨も見つからなかったけどな』。
東壁の上で聞いた、あの平らな声。
男は馬にまたがり、森の奥へと消えていった。
ノエルは、赤いリボンを両手で包むように握りしめて、その場に立ち尽くしていた。
◇
「――出てこいよ」
振り返りもせずに、ノエルが言った。
「砦を出た時から、分かってた。……あんた、足音はうるさいけど、道の選び方だけは狩人みたいだな」
俺は、茂みから出た。
その瞬間、ノエルが振り向きざまに短弓を引いていた。
矢じりが、まっすぐに俺の胸を狙っている。五十歩先の的に、十本十本とも立てた腕だ。この距離で、外すはずがない。
俺は、槍を地面に置いた。
「……何のつもりだ」
「妹さん、生きてるんだな」
ノエルの弓弦が、きり、と鳴った。
「……あの夜、あの人が、燃える村からリナを助け出してくれたんだ。……あの人がいなかったら、リナも灰になってた。だから――」
「だから、俺を射てば、妹さんを返してもらえる。……そういう約束なんだな」
「……そうだ」
「なら、今射てばいい」
ノエルの目が、大きく揺れた。
「峡谷まで待たなくても、ここには俺しかいない。峡谷で射るより、ずっと簡単だ。……でも、それでも、あの人は峡谷まで待てって言ったんだろう」
「……」
「……妹さんを返すのは、いつも『次』なんだよな」
矢じりが、わずかに下がった。
それでも、ノエルは弦を緩めなかった。
「……うるさい。うるさいうるさいうるさいっ。……あんたに何が分かるんだよ。未来を読めるくせに。うちの村の未来は、読めなかったくせに……!」
――そうだ。
読めなかった。
リンデ村は、ゲームのどこにもない。俺が尾根道を選んだから、生まれた悲劇だ。――そう、俺はずっと思っていた。
けれど。
あの村を焼いた騎兵は、何者だった?
狼の森の奥で俺たちが見つけた野営地。そこにあった村の地図。その地図に押されていた――宰相府の封蠟。
そして、その宰相の後ろにいたのは。
「……ノエル」
俺は、一歩も動かずに言った。
「俺のことは、信じなくていい。射ちたければ、射てばいい。……でも、一つだけ、見てほしいものがある」
「……見てほしいもの」
「リンデ村を焼いた連中が、誰の命令で動いていたか。その証拠を。……それを見てから、もう一度、俺を射つかどうか決めてくれ」
長い、長い沈黙があった。
やがて、ノエルは、弦を緩めた。
「……三日だ」
それだけ言うと、狩人の少年は、音もなく闇の中へ消えていった。
俺は、地面に置いた槍を拾い上げた。
手のひらが、びっしょりと汗で濡れていた。




