第56話 小隊長ガイ
秋の終わりに、王都から一人の将軍がやってきた。
バルド将軍。峡谷の戦で、王国軍の総大将を務める男だ。
熊のような大男だった。白いものの混じった髭は伸び放題で、鎧は使い込まれて傷だらけ。香水の匂いはしなかった。たぶん、一生しない人だ。
「――お前が、夢で未来を見るという小僧か」
司令室に入るなり、将軍は俺を上から下まで眺め回した。
「……はい。ただの兵士ですけど」
「ふん。伯爵の手紙には、『この小僧の言うことだけは、誰の言うことよりも先に聞け』とあった」
……伯爵。
「わしは夢など信じん。だが、あの不愛想な男のことは信じている。……話せ」
◇
地図の上で、俺は原作の灰の峡谷を、もう一度組み立てた。
王国軍の布陣。帝国軍の主力と、魔導機兵の部隊が現れる刻限。午後に谷底を埋める、灰色の霧。
そして――撤退の鐘。
「原作では……いえ、俺の夢では、総大将が鐘を鳴らさずに、本陣から逃げます。それで、前線の部隊が、退く合図もないまま取り残される」
「……わしが、逃げるだと?」
将軍の髭が、ぶわりと逆立ったように見えた。
「いえ。俺の夢の総大将は、ダンケル将軍でした。……今は、労役所で床を磨いているはずです」
将軍は、しばらく口をあんぐりと開けていた。
それから、司令室が揺れるほどの声で笑い出した。
「――がはははは! あの香水の小僧か! そりゃあ逃げるわい!」
将軍は、地図の上の本陣の位置を、太い指でどんと叩いた。
「よかろう。撤退の鐘は、本陣ではなく、前線に置け。前線の者が、自分たちの判断で鳴らせるようにな。……その代わり、鳴らした者の責任は、わしが負う」
俺とリーゼは、顔を見合わせた。
――この人は、本物だ。
「では、誰に鐘を任せる」
リーゼは、一瞬も迷わなかった。
「第七歩兵隊のガイ。……この砦で、一番まともな男です」
◇
「……おれが、小隊長っすか」
中庭。マルタから辞令を受け取ったガイは、一枚の紙を両手で持ったまま、石のように固まっていた。
「そうだよ。第七の、新入りと新兵をまとめた十二人。それと、峡谷の前線の撤退の鐘も、あんたの持ち場だ」
「……おれ、字もろくに書けねえっすよ」
「知ってるよ。手紙、三回読み直したって言っただろう」
マルタは、ガイの胸を拳で軽く叩いた。
「字なんかどうだっていいんだよ。小隊長にいるのは、仲間の顔色が分かる目と、一番最後まで前に立ってる脚だけだ。……あんたは、どっちも持ってる。初日の夜からな」
ガイは、紙を握りしめたまま、しばらくうつむいていた。
それから、顔を上げて、俺を見た。
「……トーマ。お前、初日の夜、おれを地下水路で叩き起こしたよな」
「……はい」
「あの夜、おれは死ぬはずだったんだろ」
……この人には、一度も言ったことがなかった。
「……どうして、それを」
「お前の帳面の一番上に、おれの名前が書いてあって、線が引いてあった。……字は読めねえけど、自分の名前の形くらいは分かるよ」
ガイは、いつもの仏頂面で、少しだけ笑った。
「だから、おれはいつも二番目でいいんだ。……一度もう死んだようなもんだからな。二番目でも、十分すぎる」
「……ガイさん」
「鐘は、おれが鳴らす。お前の夢の中で一度も鳴らなかった鐘を、一番いいとこで」
ガイは、辞令を、丁寧に四つにたたんで、胸当ての内側にしまった。
その背中を、中庭の第七の連中が、よってたかってばしばしと叩いた。
「小隊長どのぉ!」
「一杯おごってくだせぇ!」
「……給金は、まだだ」
ガイは、耳を赤くしながら、それだけ言った。
中庭の端で、ノエルが、その光景を無表情に見つめていた。
そして、その夜。
砦の通用口から、ひとつの影が、音もなく抜け出していった。




