第54話 結末までの道
嘘は、つかなかった。
「……灰の峡谷です。俺が前世を思い出したあの夜から、一年後の秋」
俺は、地図の上の、谷が一番狭くなる場所を指さした。
「王国軍の本陣が、帝国の魔導機兵に押される。総大将は撤退の鐘を鳴らさずに、自分だけ逃げる。……取り残された第七を逃がすために、リーゼさんは一人で、この狭い道に残ります」
「……一人でか」
「盾になって、炎で道を塞いで。……最後に、一行だけ台詞が出ます」
その台詞を、俺は二万時間の間に、数えきれないほど読んだ。
「『――行け。生きろ。それが命令だ』」
司令室が、静まり返った。
リーゼは、窓の外を見たまま、しばらく動かなかった。
やがて、その肩が、小さく震えた。
――泣いているのかと思った。
違った。
「……ふっ」
笑っていた。
「……いかにも、私が言いそうなことだな」
「……笑い事じゃありませんよ」
「笑うしかないだろう。……部下をかばって、部下に生きろと命令して死ぬ。その物語の私は、たぶん、自分のやりたいことをやって死んだんだろう。……悪くない死に方だ」
リーゼは、振り返った。
その目は、笑っていなかった。
「だが、私は、その物語の私じゃない」
一歩、俺の前に出た。
「その物語の私は、一度もお前に会っていない。地下水路の夜も、尾根道も、狼の森も、宿場町の焼き菓子も、新月の夜も知らない。……父とスープを飲んだことも、ないだろう」
「……はい」
「お前が知っているのは、結末だけだ。……結末までの道は、私たちが歩く」
リーゼの包帯の手が、俺の胸を、とん、と叩いた。
「一人でではない。……もう、一人でではないだろう」
◇
何も言えなかった。
二万時間。ずっと一人で、画面の前で、この人の最後の一行を読んできた。
その人が今、目の前で、「一人じゃない」と言っている。
視界が、じわりと滲んだ。
「……泣くな。部下が上官の前で」
「……泣いてません」
「嘘だな」
「……すみません、嘘です」
リーゼは、くすりと笑った。それから、自分の外套の袖で、乱暴に俺の顔を拭った。
「……それと、もう一つだけ聞かせろ」
「はい」
「前の世界で、お前はなんと呼ばれていた」
……それは、予想していなかった。
「……冬馬。とうま、です。こっちと同じような響きです」
「……とうま」
リーゼは、不慣れな形で、その音を口の中で転がした。
「……大して変わらないな」
「そうなんです。だから、こっちでも、あんまり違和感がなくて」
「そうか。……なら、どちらで呼んでも、お前はお前だな」
窓の外で、朝の鐘が鳴った。
東壁での朝稽古の刻限だ。リーゼが、半年間、一度も遅れたことのない刻限。
リーゼは、窓の外をちらりと見て、それから、窓を閉めた。
「……今日の稽古は、休みだ」
「えっ」
「代わりに、少し、そこに座っていろ」
リーゼは、自分の椅子の隣に、もう一つ椅子を引き寄せた。
そして、二人で、何も話さずに、灰の峡谷の地図を眺めていた。
地図の上の、狭い谷の道は、もう、それほど恐ろしくは見えなかった。




