第53話 二万時間の秘密
司令室の扉を叩いたのは、夜番が明けた、まだ暗いうちだった。
「……開いている」
リーゼは、燭台の灯りの下で、峡谷の地図を広げていた。司令代理になってから、この人はほとんど眠っていない。
顔を上げたリーゼは、俺を見て、ペンを置いた。
「……顔に、書いてあるぞ」
「何がですか」
「『一人で背負うのをやめに来た』と。……そうだろう」
……この人には、本当に。
「……はい」
俺は、椅子に座らなかった。立ったまま、深く息を吸った。
「一番に、リーゼさんに話すと、約束したので。……全部、話します」
◇
俺には、前の人生がある。
ここではない世界で、二十八年生きた。魔法も刻印もない。その代わりに、光る板の中に、物語を映して遊ぶ仕掛けがある世界だ。
その中に、一つの物語があった。『アッシュ・レクイエム』。
この世界と、そっくり同じ大陸。同じ王国と帝国。同じ砦。――そして、一年半で、全員が死ぬ物語。
俺は、その物語を、二万時間遊んだ。
何度も、何度も。誰か一人でも生き残る道を探して。一度も、見つからなかった。
そして気がついたら、その物語の中の、名前もない兵士になっていた。
初日の夜に居眠りをして、砦を落とす兵士。「兵士C」。
――リーゼは、最後まで、一度も口を挟まなかった。
地下水路のことも。尾根道のことも。帳面に書いた名前の一覧のことも。「S」が俺と同じ、この物語を知る人間だということも。
ただ、燭台の灯りを映した瞳で、俺を見ていた。
◇
話し終えた時、窓の外は、少しだけ白み始めていた。
リーゼは、長いこと黙っていた。
やがて、その唇が、ゆっくりと動いた。
「……二万時間、というのは、どれくらいだ」
「えっと……一日も休まずに、寝ずに続けて、二年と少しです」
「……そうか」
リーゼは、地図の上に目を落とした。灰の峡谷の、細く曲がりくねった谷底の道。
「お前は、二年もの間。……私が死ぬところを、何度も見てきたのか」
胸の奥を、そっとつかまれたような気がした。
「……はい」
「それで、初めて会った日、あんな顔をしていたのか」
「……どんな顔でしたか」
「泣きそうな顔だ。……地下水路のことを問い詰めているのに、私を見て、むしろ嬉しそうで、泣きそうな顔をしていた。……ずっと、意味が分からなかった」
……そんな顔をしていたのか。
推しキャラが、生きて、動いて、自分を問い詰めていたのだ。当然だ。
リーゼは、立ち上がった。
窓を開ける。夜明け前の冷たい風が、司令室に流れ込んできた。
背中を向けたまま、リーゼが言った。
「……一つだけ、聞かせてくれ」
「はい」
「お前の知っている物語で、私は――」
そこで、一度だけ言葉が途切れた。
「――どうやって死ぬ」




