第51話 帰還
黒狼砦の正門が見えたのは、王都を出て十二日目の夕方だった。
「……小さいな」
馬の上で、リーゼがぽつりと言った。
王都の白い城壁を見た後だと、黒い石を積んだ砦は、まるで山の斜面にしがみついた小さな獣のように見えた。
「でも、帰ってきた感じがしますね」
「……ああ。不思議だな」
砦の東壁の上で、誰かが片手を振っていた。その後ろで、砦の鐘が鳴り始める。警鐘ではない。帰還を知らせる、ゆったりとした鐘だ。
◇
その夜の食堂は、砦ができて以来の騒ぎだった、と古参の兵が言っていた。
長机には、ありったけの肉とパンと酒。第七だけではない。砦中の平民兵が、いや、貴族の騎士たちまでが、席を並べていた。
「――でよぉ、ガイがその団長をよぉ、バキーンって、二発!」
ピートが、卓の上に立ち上がって拳を振り回していた。
「三発じゃなかったか?」
「いや、二発だ。三発目は副司令の分だって、ガイが――」
「おぉおおおっ!」
食堂中がどっと湧いた。本人は、隅の席で黙って酒を飲んでいた。耳だけが、少し赤い。
「……トーマ、ちょっとこっち来い」
オルグが、片目で俺を手招きした。その周りに、第七の古参が何人か集まっている。
「……それ、見せてみろ」
「それ?」
「王様にもらったやつだ」
俺は、懐から灯りの形の銀の徽章を取り出した。
古参たちが、息を呑んだ。それから、一人がそっと指でそれに触れた。
「……灯守の徽章だ。本物だ」
「俺のじいさんの、そのまたじいさんが、子どもの頃に一度だけ見たって話だ」
「平民がこれをもらうなんてよぉ……」
古参たちは、徽章を回して見ながら、ただただ黙っていた。
やがて、オルグが、俺の手のひらにそれを戻した。
「……よくやった。新入り」
それだけ言って、オルグは酒を飲み干した。
……オルグが、一度にそんなに喞るのを、俺は初めて聞いた。
◇
宴の終わりに、リーゼが席を立った。
食堂が、水を打ったように静まり返る。
この砦で、リーゼはもう、「副司令の小娘」ではなかった。王の命で司令代理を務める、この砦の一番上に立つ人だ。
「……皆、聞いてくれ」
リーゼは、食堂をゆっくりと見回した。
「半年後。王国軍は、灰の峡谷で帝国軍と戦うことになる。……この砦からも、第七を含め、半数が出ていくだろう」
ざわめきが、小さく広がった。
「そこで、一つだけ約束してほしい。……平民兵を、貴族の盾にはしない。貴族の騎士も、平民兵を見捨てない。……この砦の全員で、一人も欠けずに、帰ってくる。それが、私の、司令代理としての最初の命令だ」
しんとした食堂に、しばらく何の音もなかった。
それから――
「……了解!」
最初に立ち上がったのは、意外にも、貴族の若い騎士の一人だった。新月の夜、ヴィクトルの私兵と一緒に東壁を守った、あの騎士だ。
その後に、第七が、平民兵が、他の騎士たちが、次々と立ち上がっていく。
「了解!」
「了解しました!」
「了解だぜぉ!」
最後のは、たぶんピートだ。
リーゼは、しばらくその光景を見つめていた。
それから、うつむいて、少しだけ笑った。
――ゲームの中のリーゼ・アーベントは、平民を剣の盾にする軍のやり方に、最後まで苦しんでいた。
その人が今、自分の口で、それを終わらせた。
◇
宴の後。兵舎の裏で槍を磨いていると、マルタが隣に腰を下ろした。
王都へ発つ前と同じ場所で、同じ夕焼けだった。
「……いい司令になったね、あの子は」
「はい」
「あんたのせいだよ」
「……せい、ですか」
「おかげ、って言うと、あんた調子に乗るだろう」
マルタは、からからと笑った。
それから、夕焼けの空を見上げて、何でもないように言った。
「……半年後の峡谷。あんたの日記の、あたしの名前のところには、そう書いてあるんだろ?」
槍を磨く手が、止まった。
「……消すって、言いましたよね」
「ああ。聞いたよ」
「半年後に、消します」
マルタは、何も言わずに、俺の頭をこつんと叩いた。
王都へ発つ前と同じ強さだった。




