第50話 灯の聖女
王都を発つ前の日。伯爵の別邸の庭で、俺はセラと並んで座っていた。
庭では、孤児院の子どもたちが、ガイを木に登らせようとしていた。ガイは一つ年上の子を肩に乗せ、二人を両腕にぶら下げて、それでもまだ「もう一人」とせがまれている。
「……あの人、いつもあんなにもてるの?」
「砦では、ピートとオルグを両腕にぶら下げてましたよ」
「……それは、もててるのかしら」
セラは、くすりと笑った。
白い髪の中の灰色の一房は、まだあった。けれど、儀の前よりもずっと薄く、ずっと細くなっている。日の光の下では、白と見分けがつかないほどだった。
「……決めたの」
セラが、庭を見たまま言った。
「大聖堂を出る。……新しい大司教様が、許してくれた。あの人は、グレゴールとずっと仲が悪かった人で、今度のことで全部ひっくり返してくれたの」
「……聖女を、やめるんですか」
「やめないわ」
セラは、俺の方を向いた。灰色の瞳が、まっすぐに俺を見ていた。
「祈りを、捧げるのをやめるの。……その代わりに、灯す聖女になる」
「灯す……」
「一人で命を削って、大勢を癒やすのじゃなくて。薬と、手当てと、ちゃんとしたご飯と。誰にでもできることを、誰にでもできるように教える聖女。……それなら、私がいなくなっても、灯は消えないでしょう」
セラは、少しだけ得意げに顎を上げた。
「まずは、孤児院を建て直す。伯爵様が、お金を出してくれるって。……それから、砦へ行くわ」
「……えっ」
「あのお婆さんに、薬草のことを教わりたいの。砦なら、いつでも怪我人がいるでしょう。……それに」
セラは、俺の左腕を、そっと指でつついた。包帯の下に、ひびの入った刻印がある。
「半分こした人が、また無茶をしないように、見張っていないと」
……それは、断れない。
◇
その夜、俺は、アーベント伯爵邸の食堂にいた。
どうして俺が、と聞いたら、リーゼは、「父が呼べと言った」とだけ答えて、それきり結んだ口を開かなかった。
長い食卓に、三人だけ。伯爵と、リーゼと、俺。
宰相府の「耳」だった使用人は、もういない。初老の執事が、どこか嬉しそうにスープを注いで回っていた。
しばらく、誰も何も言わなかった。スプーンが皿に当たる音だけが、やけに大きく響く。
――気まずい。
この三人で、気まずくならないわけがない。
「……リーゼ」
伯爵が、スプーンを置いた。
「……はい、父上」
「……そのスープは、お前の母が好きだったものだ」
リーゼの手が、止まった。
「……覚えています。小さい頃、熱いと言って泣いたら、母が息を吹きかけて冷ましてくれた」
「そうだったな。……お前が一口飲んで笑うと、あれも一緒に笑っていた」
伯爵は、皿の中を見つめたまま、ゆっくりと言った。
「……お前は、笑うと、母によく似ている。……だから、私は――お前が笑うのを、見られなかったんだ」
食堂が、静まり返った。
リーゼは、長いこと何も言わなかった。
それから、スープを一さじ、ゆっくりと口に運んだ。
「……熱いです。父上」
そう言って、リーゼは笑った。
目の縁を赤くしながら、それでも、実に楽しそうに。
伯爵は、その笑顔を、今度は目を逸らさずに見ていた。
笑いはしなかった。けれど、その口元が、ほんの少しだけ、引きつるように動いたのを、俺は確かに見た。
二十一年ぶりに、何かを思い出そうとしているような顔だった。
◇
食事の後。玄関で、伯爵が俺を呼び止めた。
「……トーマ」
「はい」
「半年後、灰の峡谷で大きな戦があると聞いた。……お前は、その夢も見ているのだろう。娘が、そこでどうなるのかも」
……この人は、本当に聡い。
「……死なせません」
「分かっている。……だから、一つ頼みがある」
伯爵は、俺の目をまっすぐに見た。この人の目は、やはりリーゼによく似ていた。
「娘を、――」
「――父上!」
廊下の奥から、リーゼの声が飛んできた。
「余計なことを言うなと、あれほど!」
伯爵は、しばらく黙っていた。
それから、咳払いを一つして、何もなかったような顔で言い直した。
「……娘を、砦まで、無事に送り届けてくれ」
「……はい。必ず」
――たぶん、言いたかったのは、それじゃない。
でも、それを聞くのは、一年後でいい。
峡谷を越えた、その先で。
◇
翌朝。王都の西門。
第七の二十人と、リーゼと、ドーラ婆さんの馬車が、列を作っていた。見送りには、伯爵と、ミアと子どもたちと、下町の連中と、エーリヒ殿と――それから、白い外套のフードを深くかぶった小柄な影。
「……ひと月したら、行くから」
フードの奥で、セラが言った。
「……遅いって、言いませんから」
「――言うわよ。私が」
笑い声を背中に、俺たちは王都を出た。
空は、おそろしく晴れていた。
――第2章 聖女と王都 完――




