第48話 夜明けのあと
目を覚ますと、白い花の匂いがした。
知らない天井だった。窓から差し込む日差しが、やけにまぶしい。
首を動かすと、寝台の脇の椅子で、誰かが腕を組んだままうつらうつらと船を漕いでいた。
赤みがかった髪。右手には、新しい包帯。
――居眠りだ。
あのリーゼが。砦の東壁で、夜明け前の稽古に一度も遅れたことのない人が。
しばらく、何も言わずにその寝顔を見ていた。
やがて、リーゼの頭ががくんと前に落ちて、自分でそれに驚いて目を開けた。
「……っ! 寝ていない!」
「……おはようございます」
「…………」
リーゼは、俺の顔を見て、それから、何とも言えない顔をした。怒りたいのと、泣きたいのと、笑いたいのとを、全部いっぺんにやろうとして失敗したような顔だった。
「……二日だ」
「え」
「お前は、二日も居眠りをしていたんだ。……その間、私がどんな――」
そこで、リーゼの声が詰まった。
「……どんな、気持ちで。……もういい。起きたなら、それでいい」
そう言って、リーゼは俺の右手を、包帯の手で、そっと握った。
握ったまま、しばらく離さなかった。
◇
ここは、アーベント伯爵の別邸だという。
孤児院の子どもたちが預けられている屋敷だ。庭では、子どもたちのはしゃぐ声が聞こえていた。
「――兵隊さん、起きた?」
扉の隙間から、ミアが顔を出した。手には、庭で摘んだらしい白い花を一束。
「お姉ちゃん、もう元気になったよ。昨日、お手紙くれたの。『兵隊さんが起きたら、遅いって言っておいて』って」
……あの子は、本当に。
ミアの後ろから、杖の音と一緒に、小柄な老婆が入ってきた。
「どれ、腕を見せな」
ドーラ婆さんは、俺の左腕の包帯をほどいた。
写し身の刻印の線が、まだそこにあった。ただし――細い細いひびが、稲妻のように線を横切っている。
婆さんは、そのひびを指でなぞって、長いこと黙っていた。
「……焼き切れは、してない。けど、もう元には戻らないね」
「……使えますか」
「あと一度だけ」
婆さんは、きっぱりと言った。
「あと一度なら、この刻印はもつ。……それ以上使えば、今度こそ腕ごと持っていかれるよ。いいかい、一度だ。使いどころを間違えるんじゃないよ」
――あと一度。
俺は、ひびの入った刻印を見下ろした。
それでも、腕は、まだここにある。俺も、まだここにいる。セラも。
「……十分です」
婆さんは、ふん、と鼻を鳴らした。それから、俺の頭を、皺だらけの手で一度だけ撫でた。
「……よく帰ってきたね。あの子の分まで」
◇
その後、ガイとマルタがやってきて、二日分の知らせを一度にぶちまけていった。
「宰相のオズワルドは、捕まったよ。王城の裏門から馬車で逃げようとしたところを、監察院の連中にね」
マルタが、りんごを丸かじりしながら言った。
「それに、王様が、寝台から起きて、ご自分で召喚状に署名したんだとさ。何年ぶりかの王の字だって、監察院の役人が泣いてたよ」
「グレゴールの豚は、儀の間から近道で逃げようとして、扉の前で仮面の奴につまみ上げられてた」
ガイが、ぼそりと付け足した。
「……ヴィクトルは?」
「廊下で伸びたまま、縛られてた。いまは監察院の地下牢だ」
ガイは、拳をじっと見つめた。
「……今度は、誰も鍵を開けに来ねえように、伯爵様が監察院に人を出してる。……それと、ミアの代わりに殴っといたって、ミアに言ったら『ガイにいちゃん、いいこいいこ』って頭撫でられた」
それは、たぶん一生自慢するやつだ。
「……それとな、トーマ」
マルタの声が、少しだけ低くなった。
「宰相の後ろにいた、顔を見せない宮廷魔導師だけどね。……あの夜から、消えたよ。部屋はもぬけの殻だったそうだ」
――S。
「……やっぱり、そうですか」
「ただし、一つだけ置き土産があったってさ」
マルタは、懐から一枚の紙を取り出した。エーリヒ殿から、「これは、あの新兵に」と渡されたものだという。
片翼の鳥の封蠟。
開くと、細く整った日本語が、一行。
『第二章、クリアおめでとう。――それじゃあ、第三章で会おう』
俺は、紙を握りつぶさなかった。
丁寧にたたんで、枕の下にしまった。
第三章。灰の峡谷。
リーゼも、マルタも、王国軍の主力も、死ぬはずの戦い。
――上等だ。
そのつもりで、会いに行ってやる。




