第47話 祈りを灯す
大扉の向こうは、光の底だった。
床一面に刻まれた円の刻印が、何重にも白く輝いている。その中心の祈祷台に、白い法衣の少女がひざまずいていた。
セラだ。
両手を組んだまま、動かない。動けないのだ。手帳にあったとおりに。
「――おや、おや。遅かったですな」
祈祷台の脇で、太った司祭が振り返った。グレゴール司教補だ。その左右に、教会騎士が二人。
「儀は、始まってしまいましたよ。祈祷台は、もう聖女様を離しません。……あなた方にできることは、もう何も――」
「黙れ」
リーゼの炎が、二人の騎士の槍をまとめて弾き飛ばした。グレゴールが、悲鳴を上げて床に尻もちをつく。
俺は、祈祷台へ駆けた。
◇
「……セラ」
隣に膝をつく。
セラの唇が、わずかに動いた。声は、ほとんど出ていなかった。
「……遅くなかった。……今日は」
「約束したので。――借ります、セラ」
左腕の刻印が、熱を持った。
「写し身」。
これまでとは、比べ物にならない熱だった。剣筋でも、怪力でもない。体の一番奥にある、温かいものを、そっくりそのまま自分に移すような感覚。
俺の両手が、勝手に組まれた。
そして――見えた。
糸だ。
灰色の、細い糸が、セラの胸から何十本も伸びている。祈祷台を突き抜け、床を突き抜け、ずっと下へ。あの黒い柱へ。
そして――俺の胸からも、同じ糸が伸び始めていた。
どくん。
足の下で、何かが脈打った。
どくん。どくん。
糸が引かれるたびに、体の中の温かいものが、少しずつ引きずり出されていく。セラが言っていたとおりだった。
――これを、セラは一人で、何年も。
「リーゼさん! 糸です! セラの胸から右下に十本、左下に十二本――床を掠めて、真下へ!」
「分かった!」
リーゼの剣が、炎を纏って祈祷台の右下を薄くなぐ。
糸が、十本、まとめて焼き切れた。
セラの肩が、ほんのわずかに軽くなったように見えた。
けれど――
「……また伸びてきた」
焼き切ったばかりの糸の切れ口から、新しい糸が芽を出すように伸び始めていた。
「糸を焼いても、祈っている限り、また生えてくる……!」
「なら、焼き続けるまでだ!」
リーゼの剣が、何度も何度も炎を放つ。糸が焼ける。生える。焼ける。生える。リーゼの包帯の下の右手が、また赤く焦げていく。
――このままじゃ、だめだ。
◇
「……トーマ」
セラの声が、すぐ隣で聞こえた。
「……糸が、どうして伸びるのか。分かった気がする」
「……どうしてですか」
「私の祈りが、『捧げる』形をしているから。……小さい頃からずっと、そう教えられてきた。祈りは、神様に捧げるものだって」
――捧げる。
『聖なる灯を、灰に捧げよ』。
黒い柱に刻まれていた、あの文字。
そして――エレオノーラの手帳の、一番最後の頁。伯爵の記録の汚い字の、そのもう一つ前に。弱々しい、けれど丁寧な字で、一行だけ書かれていた言葉があった。
『祈りは、捧げるものではなく、灯すものだった。』
あの時は、意味が分からなかった。
今は、分かる。
エレオノーラは、儀の後、祈らずに「ただの妻として笑った」。十一年。一年と言われた命が。
その十一年、彼女の笑顔は、誰に捧げられたものでもなかった。家族を照らす、灯だった。
「……セラ。祈りを、変えましょう」
「変える?」
「神様にも、柱にも捧げない。……隣にいる人に、灯すんです」
ドーラ婆さんの声が、頭の中で響いた。
――写したものを、持ち主と分け合う。『返し』って使い方があるんだよ。
「俺は、セラに。セラは、俺に。……半分こです」
セラは、一瞬だけ目を丸くした。
それから、祈祷台に縛られた体のまま、ほんの少しだけ――俺のほうに、組んだ手を傾けた。
「……それなら、得意よ。あなたのことなら、ずっと考えてたから」
◇
「返し」。
左腕の刻印が、焼けるように熱くなった。
セラから写した祈りを、セラへ返す。セラの祈りが、俺へ流れ込んでくる。二人の間を、温かいものが行ったり来たりする。
下へ引かれるのではなく。横へ。隣へ。
糸が、たわんだ。
ずっと張り詰めていた何十本もの灰色の糸が、まるで引く力を失ったように、ゆるゆるとたわんでいく。
「――今です! リーゼさん、全部!」
「――ああっ!!」
リーゼの剣が、円を描いた。
炎が、祈祷台を一周する。たわんだ糸が、一本残らず、赤い光の中で焼け落ちていく。
今度は、生えてこなかった。
どっ――と、足の下で、何かが大きく跳ねた。
床の刻印の光が、一瞬だけ消える。それから――床の割れ目から、小さな白い光の粒が、蛍のようにふわりと浮かび上がってきた。
一つ、二つ。十、二十。
光の粒は、セラの周りをゆっくりと回って、その胸に、そっと吸い込まれていった。
「……あたたかい」
セラが、小さく呟いた。
その白い髪の中の、灰色の一房が――ほんの少しだけ、薄くなっていた。
――取り戻したんだ。
柱に持っていかれたものを、ほんの少しだけ。
祈祷台が、セラを離した。
その瞬間、左腕に、熱ではない痛みが走った。
刻印の線に、ぴしりと、細いひびが入る音がした気がした。
――あ。
世界が、傾いた。
「――トーマ!!」
床に倒れる前に、誰かの腕が俺を受け止めた。焦げた右手の、熱い腕だった。
「生きて帰れと言っただろう! 命令だと!」
「……生きてますよ」
声が、うまく出なかった。
「……ただ、ちょっと、眠いだけです」
「居眠りは、するなと言ったはずだ……!」
――それは、俺が自分で決めたことだ。
言い返す前に、眠ってしまった。




