第44話 新月の前夜
新月の前日。下町の外れの、店を閉めた酒場の裏。
積み上げられた樽の上に、粗末な旅人の外套を美しく着こなした男が腰かけていた。
「――これが、約束のものだ」
ルカは、革で紐を掛けた分厚い帳簿を、俺に放ってよこした。
「宰相オズワルドが、王国の穀物を帝国の軍閥に横流ししていた記録だ。帝国の倉庫番の帳簿と、王国の税の記録。両方を並べれば、子どもにでも分かる」
「……帝国の飢饉を長引かせていた穀物ですね」
「そうだ。王国では『帝国が飢えて攻めてくる』と断り、帝国では『王国が穀物を独り占めしている』と煩る。……その両方で、同じ鳥が儲けていた」
ルカは、銀の仮面を指で弄んだ。
「明日の夜、大聖堂の正門で俺の手の者を三十人暴れさせる。教会騎士団の半分はそちらへ回るだろう。……俺自身は、儀の間の入り口にいよう」
「えっ。でも、ルカは帝国の――」
「王子が他国の聖堂に踏み込むのは、確かに大問題だな」
ルカは、仮面を顔に当てた。
「だから、これをつけていく。仮面の騎士がどこの誰かなど、王国の誰も知らんだろう」
「……それ、通用しますか」
「しただろう、今まで」
……していた。ゲームでも、第三章まで正体は伏せられていた。
◇
帳簿は、マルタに渡した。
「……ふん。字は読めないけど、重さで分かるよ。こりゃあ、一人や二人の首では済まない重さだ」
「監察院の役人を、一人、広場に呼んであります。聖女の審問の時に、床に崩れたローデン卿を見ていた人です。……あの人は、もう宰相のいうことを信じていない」
「上等だね」
マルタは、帳簿を懐にたくし込んで、俺の肩をばしんと叩いた。
「伯爵様の首は、あたしらが繋いでおく。あんたは、自分の首を繋いで帰ってきな」
◇
その夜。俺は一人で、安宿の屋上に上がった。
月は、もう細い細い糸のようになっていた。明日には、これも消える。
「……やはり、ここにいたか」
振り返ると、リーゼが屋根の斜面を登ってきていた。砦の東壁の上にいた時と同じ、迷いのない足どりだった。
「眠れないのか」
「眠らないようにしてるんです。居眠りしたら、まずいので」
「……大事な夜の前には寝ろ。居眠りは、寝不足で起きるものだ」
それは、そうかもしれない。
リーゼは、俺の隣に腰を下ろした。今度は、許可もいらない距離だった。
「……セラ殿からの伝言は、聞いた」
「えっ。……『鎖は私が見る、焼くのは任せる』、ですか」
「もう一つのほうだ」
……『あなたの騎士を、半分だけ借ります』。
「……伝えてないはずですけど」
「侍女の娘が、わざわざ伝えに来た。……聖女様からの、たっての頼みだと」
リタさん……。
リーゼは、冷たい夜風の中で、少しだけ頬をふくらませた。
「……半分だけだぞ。明日の夜だけだ」
「えっと……はい」
「あとの半分は、返してもらう」
そう言って、リーゼは自分の膝を抱えた。その耳が、夜の中でも分かるほど赤かった。
しばらく、二人とも黙っていた。
王都の灯りを見下ろしながら、リーゼが、ぽつりと言った。
「……トーマ」
「はい」
「生きて帰れ。――命令だ」
狼の森へ行く前の夜も、同じことを言われた。母親の形見の短剣と一緒に。
あの時の俺は、「はい」と答えるのが精一杯だった。
今は、少しだけ違う。
「……はい。その代わり、リーゼさんもですよ」
「……部下が、上官に命令するのか」
「命令じゃないです。お願いです」
リーゼは、一瞬だけ目を丸くした。
それから、自分の膝に顎を載せて、小さく笑った。
「……仕方のない部下だ」
細い月が、西の空に沈んでいく。
明日の夜、空に月はない。
けれど、その代わりに――たくさんの灯りが、俺たちの周りにある。




