第42話 灰色の糸
三日後の夜。大聖堂の裏の排水口で、俺を待っていたのは、セラの侍女のリタだった。
そばかすの浮いた、セラと同い年くらいの娘だ。手燭を持つ手が、小刻みに震えている。
「……本当に、来るんですね。兵隊さん」
「来ますよ。呼ばれたので」
「聖女様が、『遅いって言わせないで』って」
――あの子らしい。
曲がった鉄格子をくぐり、記憶どおりの回廊を進む。右、右、左。回り扉。今夜はガイがいない。代わりに、リタの手燭の小さな明かりが、湿った壁に二人分の影を揺らしていた。
◇
セラは、寝台の上に座って待っていた。
頬には、この前よりもずっと色が戻っている。聖水を飲んだふりをして、こっそり吐き出しているのだという。
「……今日は、遅くなかったわね」
「三日も待たせたのに、ですか」
「三日なら、待てるもの」
セラは、寝台の端をとんとんと叩いた。座れ、の合図だ。もう慣れた。
俺は、全部を話した。
黒い柱。伯爵の手帳。二十一年前の身代わりの騎士。写し身で祈りを写す作戦。リーゼの炎で鎖を焼くという、まだ形にもなっていない考え。
話し終えると、セラは長いこと黙っていた。
「……あなた、また自分が死ぬ顔をしていたのね。この前、私が寝ている間に」
「……バレてましたか」
「眠っていても分かるわ。あなたの声は、そういう時だけ、変に優しくなるの」
◇
「鎖、と言ったわね」
セラは、自分の胸元にそっと手を当てた。
「審問の日。真の祈りを捧げていた時に、見えたの。……私の胸から、細い、灰色の糸が何本も、床の下へ伸びていくのが」
「床の下……」
「ずっと下。底のない井戸みたいなところに。糸を引かれるたびに、体の中の温かいものが、少しずつ持っていかれるのが分かった」
――黒い柱だ。
「その糸は、祈っている時しか見えない。……でも、祈っている時なら、私には見える」
セラは、まっすぐに俺を見た。
「そして、あなたが私の祈りを写したら――あなたにも、見えるんじゃない?」
息を呑んだ。
写し身は、技を写す。剣筋も、怪力も、炎を吸う技も写した。なら、祈りを写せば、その祈りが見ているものまで、写るのかもしれない。
「見えたら、俺がリーゼさんに場所を教えられる」
「そう。……一人でやるより、ずっといいでしょう」
セラは、少しだけ得意げに顎を上げた。
「それにね。二人で祈れば、糸に持っていかれるものも、半分ずつよ」
「……え」
「あなたは、私の代わりになろうとしていた。でも、そんなの嫌。代わりじゃなくて、隣で祈って。……隣なら、半分こでしょう」
――隣。
この数日で、何度も聞いた言葉だった。
◇
帰り際、扉の前で、セラが俺の袖をつまんだ。
「……ねえ、トーマ」
「はい」
「あの女騎士様のこと、好き?」
心臓が、止まりかけた。
「なっ……な、何を」
「嘘をつく前の顔をしてる。……いいわ、答えなくて。もう聞こえたから」
セラは、つまんでいた袖を、ゆっくり離した。
「じゃあ、私も好きになっていい?」
「……え」
「冗談よ。……半分だけ」
セラは、初めて会った頃の、つんと澄ました顔に戻っていた。けれど、その耳が赤いのは、手燭の明かりのせいではなかったと思う。
「あの人に、伝えておいて。『鎖は、私が見る。焼くのは任せる』って。……それと」
「それと?」
「『あなたの騎士を、半分だけ借ります』って」
……それは、伝えていいものなのだろうか。
◇
回廊を戻りながら、リタがくすくすと笑っていた。
「……聖女様、あんな顔なさるんですね」
「あんな顔って」
「普通の、女の子の顔です。……ずっと、見たかったんです。私」
リタは、手燭の火を見つめたまま言った。
「兵隊さん。新月の夜、私も手伝います。回廊の扉の鍵、全部預かってますから」
「危ないですよ」
「聖女様だけを危ない目に遭わせるほうが、ずっと嫌です」
排水口の鉄格子の向こうに、夜の王都の灯りが見えた。
新月まで、あと十六日。
一人で背負っていたはずのものが、気づけば、ずいぶん多くの手に分けられていた。




