第41話 隣に立つ者
「……はい」
嘘は、見つからなかった。だから、本当のことを言うしかなかった。
「写し身で、セラの祈りを写します。祈祷台が俺をセラだと思い込んだ瞬間に、セラを引き離す。……その先のことは、手帳に書いてあるとおりです」
「戻れない、と」
「たぶん」
リーゼは、何も言わなかった。
燭台の火が、彼女の横顔の上で小さく揺れていた。
「……いつ決めた」
「伯爵の書斎を出た夜です」
「誰に話した」
「誰にも」
「――ふざけるな」
立ち上がったリーゼの手が、俺の胸ぐらをつかんでいた。包帯を巻いた右手だった。焦げた皮膚が引きつれて痛むはずなのに、その手は少しも緩まなかった。
「一番に私に話せと言った。言ったはずだ!」
「……すみません」
「謝るな! お前はいつもそうだ。砦の夜も、狼の森も、新月の夜も。一人で決めて、一人で背負って、一人で死にかけて――それで私が、どんな顔で、お前の帰りを待っていたと思っている!」
声が、割れていた。
三年ぶりに父の家の門をくぐった時も、母の手帳を読んだ時も、リーゼはこんな声は出さなかった。
「……父は、二十一年、先輩の騎士に何も言えなかったことを悔やんでいた」
リーゼの手から、ゆっくりと力が抜けた。
「私に、同じことをさせるつもりか」
◇
長い沈黙のあと、リーゼは床に腰を下ろした。俺も、その隣に座った。
言われる前に、隣に。
「……セラ殿を、見捨てろとは言わない」
リーゼは、膝の上で手帳の紙を広げた。
「だが、お前が死ぬ作戦も認めない。……だから、考えろ。二人とも生きて帰る方法を。お前の二万時間とやらで」
「……二万時間?」
「寝言で言っていた。牢から出た夜に」
……知らなかった。
「意味は聞かない。今はな」
リーゼは、手帳のある一行を指で叩いた。
「ここを見ろ。『足も手も、目に見えない鎖で縛られたようになる』。……鎖、なのだろう。目に見えないだけで」
「……はい」
「なら、見えるようにすればいい。見えれば――私が焼く」
リーゼの剣の柄で、赤い刻印がかすかに光った。
孤児院の階段の炎を、刃に吸い込んだ夜を思い出す。あの刻印は、炎を放つだけじゃない。
「……リーゼさんの炎で、祈りの鎖を」
「焼けるかどうかは分からない。だが、試す前から死ぬと決めるよりはましだ」
俺は、手帳の紙を見つめた。
二万時間。この世界を画面越しに見てきた時間。その中に、答えがあるのかもしれない。
――いや。
答えはたぶん、画面の外にある。画面の中には、身代わりなんて方法は一度も出てこなかったのだから。
「……セラに、聞いてみます。鎖が見えるかどうか。あの子は、声の濁りが見える。なら、祈りの濁りだって」
「ああ」
「それと、もう一人」
「誰だ」
「写し身を彫った人です」
ドーラ婆さん。砦の軍医で、若い頃は王都の刻印師だった人。あの人は、写し身を「影武者用の刻印だ」と言った。
――影武者用だと、知っていた。
なら、二十一年前のことも、知っているかもしれない。
「……砦まで、手紙で十日はかかる」
「新月まで、十九日。ぎりぎり、ですね」
その時、扉の外で、何かがごとりと動く音がした。
扉を開けると、ガイが、廊下の壁に背中を預けて立っていた。いつからいたのかは、聞かなくても分かった。
「……おれは二番目でいいって言ったけどよ」
ガイは、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「手紙なら、もう出してある。……五日前に。マルタ隊長宛てだ」
「えっ」
「お前がまた一人で何か背負ってる顔してたからな。こういう時は隊長に言うもんだって、砦で教わった」
リーゼと俺は、顔を見合わせた。
それから、リーゼが、本当に久しぶりに、声を上げて笑った。
「……ガイ。お前が一番、まともだな」
「へい。よく言われます」
「言われないだろ」
思わず突っ込んだ俺の頭を、リーゼが軽く小突いた。
◇
その夜、俺は眠れなかった。
けれど、それは怖かったからではなかった。
身代わりの道を選んだ夜から、ずっと胸の奥に詰まっていた冷たい石が、少しだけ小さくなった気がしていた。
――一人で背負うな。
灰の村の焚き火の前で、リーゼが言った言葉。
リンデ村の、あの夜から、俺はずっと同じことを言われ続けている。




