第39話 母の手帳
一番に私に話せ――と、リーゼは言った。
だから翌朝、俺は安宿の屋上で、リーゼに手帳を差し出した。
ただし、全部ではなかった。最後の数頁――影武者の騎士のことが書かれた頁だけを、俺は自分の懐に残していた。
伯爵との約束を破っている、と分かっていた。
それでも、今はまだ、言えなかった。
◇
リーゼは、一頁ずつ、ゆっくりと手帳をめくった。
朝日が、王都の屋根を一つずつ照らしていく。その光が、彼女の指先に届く頃には、手帳の半分がめくられていた。
「……母の字だ」
それが、最初の一言だった。
「寝る前に、絵本の余白に、この字で私の名前を書いてくれた。……『リーゼ』と。少し崩した、やさしい字で」
「……はい」
「母が、聖女だった……」
リーゼは、灰色に変わった髪のことを書いた頁で、手を止めた。
「母の髪は、灰色だった。私はずっと、生まれつきそうなのだと思っていた。……光に透けるような、きれいな灰色でな」
それから、手帳の最後に挟まっていた一枚の紙を、そっと取り出した。
それは、手帳の本文とは違う、太くて角張った文字だった。
『エレオノーラ。君が笑った日を、ここに記す。――一日目。庭の花が咲いた日。二日目。リーゼが初めて立った日。……』
日付と、一行ずつの短い言葉が、紙の裏表をまっ黒に埋めていた。何百行も。
最後の一行だけが、少しだけ文字が乱れていた。
『――君が笑わなくなった日。私も、笑うのをやめる。』
「……父の字だ」
リーゼの声が、震えた。
「父は……母が死んでから、人が変わったんじゃない。……笑うのを、やめただけだったんだ」
紙を握る指に、空から落ちてきたような雫が一つ、落ちた。
それは、雨ではなかった。
「……私は、三年も、あの人から逃げていた。……あの人は、三年も、私を王都から遠ざけていたのに」
リーゼは、紙を胸に抱いて、うつむいた。
こらえようとして、こらえきれない声が、小さく漏れた。
俺は、後ろに立っていた。
いつものように。約束どおりに。
けれど――その背中が、今は、あまりにも小さかった。
「……リーゼさん」
「……何だ」
「……隣に、行ってもいいですか」
リーゼは、顔を伏せたまま、しばらく答えなかった。
それから、小さく、本当に小さく、頷いた。
「……今は、隣でいい」
俺は、一歩だけ前に出て、その隣に並んだ。
リーゼの頭が、俺の肩に、こつんと乗った。
何も言わなかった。何も言えなかった。
王都の屋根の向こうで、朝の鐘が鳴っていた。
◇
「――で、どうやって儀を止めるんだ」
その昼。安宿の一室に、三人と、二通の手紙が集まっていた。
一通は、セラの侍女がこっそり持ってきたもの。『聖水は、もう飲んでいない。飲んだふりをしているだけ。――遅いと言わないように、早く来て』。
もう一通は、銀の仮面の形の封蠟。『新月の夜、真夜中。大聖堂の正門を、俺たちが騒がせる。それ以外は、お前たちの仕事だ』。
俺は、古い紙に大聖堂の地下の図を描いた。二万時間分の記憶と、この前自分の足で歩いた道を重ねて。
「ルカの兵が正門で騒ぎを起こしている間に、俺たちは裏の排水口から回廊に入る。儀の間の入り口は一つだけ。そこをヴィクトルの騎士団が固めているはずです」
「そこは、私とガイで押さえる」
リーゼが、包帯を巻いた右手で地図を指した。もう、いつもの副司令の顔だった。
「その間に、お前が祈祷台へ行く。……だが、手帳には『儀が始まると祈祷台は聖女を離さない』とあった。どうやってセラ殿を引き離すつもりだ」
「……そこは、考えがあります」
「どんな」
「……当日までに、セラと詰めます」
リーゼは、少しだけ眉を寄せた。けれど、それ以上は聞かなかった。
むしろ――聞いてきたのは、ガイの方だった。
◇
「……おい。トーマ」
会議の後。廊下で、ガイが俺の腕をつかんだ。
「お前、また一人で何か背負ってんだろ」
「……何のことですか」
「砦の初日の夜も、そういう顔してた。……おれはバカだから、何なのかは分かんねえ。けど、その顔だけは分かる」
俺は、何も言えなかった。
ガイは、しばらく俺の顔を見ていた。それから、つかんでいた腕を放した。
「……言いたくなったら、一番に副司令に言え。おれは二番でいい」
「……はい」
「その代わり、言わねえまま死んだら、おれがあの世まで殴りに行くからな」
――その夜明けだった。
安宿の扉を、伯爵邸の初老の執事が、息を切らして叩いたのは。
「――お嬢様! 旦那様が……旦那様が、宰相府に連れていかれました!」




