第38話 伯爵の書斎
その夜、伯爵邸の裏口を開けたのは、初老の執事だった。
「表の門は、宰相府の者に見張られております。こちらへ」
燭台も持たずに、執事は暗い廊下を迷いなく進んだ。何十年もこの家で暮らしてきた者の足どりだった。
書斎の扉の前で、執事は一度だけ振り返った。
「……トーマ様。旦那様を、どうかよろしくお願いいたします」
◇
書斎には、燭台が一つだけ灯っていた。
ハインリヒ・アーベント伯爵は、机ではなく、窓のない壁際の椅子に座っていた。あの日と同じ顔だった。ただ、その目には、もう冷たい水面はなかった。
「……孤児院の件、礼を言う」
第一声が、それだった。
「子どもたちを救ってくれたことも。……娘の後ろに、立っていてくれたこともだ」
「……やっぱり、あの時のあれは、芝居だったんですね」
「半分はな」
伯爵は、疲れたように笑った。
「この家の使用人には、宰相府の耳が二つ混じっておる。どれかは分かっているが、追い出せば新しい耳が来るだけだ。……だから、あの子とは、ああ話すしかない」
「半分、というのは」
「もう半分は、本心だ。……あの子には、王都にいてほしくない」
伯爵は、置かれていた一冊の古びた手帳を、そっと自分の膝の上に置いた。
「――ここから先の話は、あの子にはまだ話していない。そのつもりで聞いてくれ」
◇
「リーゼの母、エレオノーラは――聖女だった」
伯爵は、開いた手帳の一頁目を指でなぞった。
「二十一年前のことだ。彼女は十七で『聖女の儀』に臨んだ。……私はその頃、大聖堂を守る若い騎士の一人でな」
俺は、息を呑んだ。
アシュレクのどこにも、そんな設定はなかった。リーゼの母親の名前さえ、ゲームには出てこない。
「儀の後、彼女の髪は灰色に変わった。教会は、『一年の内に神の元へ召される』と言った。……それが聖女の名誉だとな」
「……」
「私は、それを許せなかった。彼女を教会から連れ出し、家の力と金を全部使って、彼女を『聖女ではない者』にした。……祈らせず、聖水も飲ませず、ただの妻として笑わせた」
よう笑う方だった――と、ローデン卿は言った。
それは、嘘ではなかったのだ。
「彼女は、儀の後も十一年生きた。リーゼを産み、八つになるまで育てた。……一年と言われた命が、十一年だ。だが、削られたものは、戻らなかった」
燭台の火が、小さく揺れた。
「……だから、あの子が『聖女の儀を止める』と言った時、私は――怒鳴りたいのと、抱きしめたいのと、両方だった」
伯爵は、初めて俺から目を逸らした。
「あの子は、母と同じ道を通ろうとしておる」
◇
「……どうして、俺にそんな話を」
「お前が、儀を止めるつもりだからだ」
伯爵は、手帳を俺に差し出した。
「エレオノーラが生きている間に、儀について覚えていることを全部書き留めたものだ。……二十一年、誰にも見せなかった」
受け取った手帳は、思ったよりもずっと軽かった。
丁寧な、けれど少しずつ弱々しくなっていく文字。その一頁一頁に、儀の間の様子が、祈りの言葉が、そして――あの黒い柱のことが、書かれていた。
『儀が始まると、祈祷台は聖女を離さない。足も手も、目に見えない鎖で縛られたようになる。』
『二日目の夜、私はもう祈っているのか、吸われているのか、分からなかった。』
『三日目の夜明け。私の代わりに、祈祷台に膝をついた人がいた。』
俺は、頁をめくる手を止めた。
「……代わりに、って」
「私の先輩の騎士だ。……彼は、『写し身』の刻印を持っていた」
左腕の刻印が、突然、重くなった気がした。
砦の軍医、ドーラ婆さんの声を思い出す。――これは、本当は影武者のための刻印だよ。誰かの代わりになるための、ね。
「彼は、エレオノーラの祈りを写し取り、祈祷台に彼女の影として膝をついた。祈祷台は、彼を聖女だと思い込み、彼女を離した。……私は、その隙に彼女を抱えて儀の間を出た」
「……その騎士は」
伯爵は、黙って首を振った。
それだけで、十分だった。
「……だから、私はその手帳を二十一年隠してきた。そんな方法があると知れば、また誰かが同じことをする。……だが、もう隠していられん。あの儀式を外から止める方法を、私は二十一年探したが、ついに見つからなかった」
「……」
「トーマ。お前には、これを知った上で選んでほしい。……そして、もしお前がその道を選ぶのなら――せめて、あの子には、先にそう言ってやってくれ」
伯爵は、窓のない壁を見つめたまま、小さく言った。
「私は、先輩に、何も言えなかった。……あの子に、同じ思いはさせたくない」
◇
裏口から外に出ると、夜風が冷たかった。
懐の手帳が、軽いのに、ひどく重かった。
俺の刻印は、一戦だけ、仲間の技を写す。
その「技」に、聖女の祈りが含まれるのなら。
「……あったんじゃないか。方法」
呟いた声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。
二万時間、この世界を遊んだ。「写し身」は、どの攻略サイトでも「使い道のないハズレ」だと書かれていた。
――それはたぶん、誰も、自分の命と引き換えに使おうとはしなかったからだ。




