第34話 仮面の王子、王都にて
「――話は後だ。走れ」
仮面の男は、それだけ言うと踵を返した。
遠くで、警鐘が鳴り始めていた。倒れた騎士たちは、うめき声を上げている。誰一人、死んではいなかった。
俺たちは、来た道を駆け戻った。右、右、左。回り扉。湿った石の通路。曲がった鉄格子。
丘の斜面に転がり出た時には、空が白み始めていた。
◇
下町の外れ。店を閉めた酒場の裏の、積み上げられた樽の陰。
仮面の男は、そこでようやく足を止めた。
「……助けていただいて、ありがとうございます」
俺が頭を下げると、男は少しだけ首を傾げた。
「礼を言う理由はない。尾根道で、お前は俺を見逃した。その借りを返しただけだ」
「……」
「それとも、新月の夜の砦で、俺が兵を引いたのも勘定に入れるか。それなら、今日ので貸し借りなしだ」
男は、銀の仮面に手をかけた。
そして、あっさりと外した。
黒い髪。切れ長の目。俺より二つか三つ年上に見える、整った顔立ち。ただ、頬は少しこけていて、目の下には濃い隈があった。
帝国第三王子、ルカ・ヴァルガ。
ゲームの画面で、何度も見た顔だった。最後に見るのは、いつも、燃える帝都の玉座の間で、自ら剣を胸に当てる場面だ。
「……おい。今、何でそんな顔をした」
「え」
「俺の顔を見て、墓の前に立っているような顔をした。……尾根道でも、そうだった」
ルカは、樽に腰を下ろした。ガイは少し離れたところで、大剣の柄に手をかけたまま立っている。帝国の王子と分かって、そう簡単に気を許すつもりはないらしい。
「……何で、王都にいるんですか」
「鳥を追ってきた」
「鳥、ですか」
ルカは、懐から小さな金属の徽章を取り出して、俺の手のひらに放り投げた。
片翼の鳥。
「……これ、どこで」
「帝国の宮廷だ」
ルカの声が、低くなった。
「黒狼砦を攻めろと父帝に進言した将軍の文箱から、これが出てきた。あの砦の地下水路の地図も、正門を内側から開ける手筈も、全部王国の側から届いていた。……そして帝国の飢饉を長引かせている穀物の横流しにも、同じ鳥がいる」
俺は、徽章を握りしめた。
「……王国だけじゃない。帝国にも、あいつの手が伸びてる」
「『あいつ』、か。……やはり、お前は知っているんだな」
ルカは、まっすぐに俺を見た。
「新月の夜、俺が兵を引いたのは、砦の正門があまりにも簡単に開いたからだ。罠だと思った。……実際、罠だった。ただし、仕掛けたのは一人じゃなかった。王国を売る罠と、俺たちを売る罠。その両方を、同じ鳥が仕掛けていた」
「……はい」
「だから、もう一度聞く。――お前は、何者だ」
◇
俺は、しばらく黙っていた。
パン屋の鎧戸が、通りの向こうで重い音を立てて開いた。王都が、目を覚まし始めている。
「……あなたが死ぬ未来を、知っている者です」
ガイが、息を呑むのが分かった。
ルカは、眉一つ動かさなかった。
「……いつだ」
「一年半と少し後。燃える帝都の玉座の間で。自分の剣で」
「……はっ」
ルカは、短く笑った。騙されたという顔ではなかった。むしろ、前から知っていた答えを、人の口から聞かされたような顔だった。
「俺らしい最期だ」
「笑い事じゃありませんよ」
「笑うしかないだろう。……それで? その未来を知っているお前が、なぜ俺を尾根道で斬らなかった」
「……死なせたくなかったからです」
答えは、それしかなかった。
「あなたも、リーゼさんも、セラも。全部。……俺は、そのためにここにいるんだと思うんです」
ルカは、長いこと俺を見ていた。
それから、仮面をゆっくりと顔に戻した。
「……詭弁だな。だが、嫌いじゃない」
「……どうも」
「聖女の儀は、新月の夜だと聞いた。……その夜、俺も王都にいる」
ルカは、樽から立ち上がった。
「鳥は、あの儀式に何かを賭けている。それを潰せば、帝国と王国を踊らせている糸が、一本切れる。……利害は一致しているはずだ」
「……一緒に、戦ってくれるんですか」
「勘違いするな。利用し合うだけだ」
そう言いながら、ルカは片手を差し出した。
俺は、その手を握った。剣だこの硬い、熱い手だった。
「……それと、一つだけ訂正しておく」
「何ですか」
「俺は、帝都で自分の剣など使わん。……そんな未来は、お前が潰すんだろう」
外套の裾を翻して、ルカは朝の人混みに消えていった。
しばらくして、ガイが大きな溜め息をついた。
「……トーマ。お前さ、そのうち本当に、誰かに刺されるぞ」
「え」
「副司令に、今の、何て説明するんだよ」
……それは、考えていなかった。




