第32話 父と娘
アーベント伯爵邸は、王城の西の丘にあった。
黒い鉄の門。手入れの行き届きすぎて、花も草も後ろを向いているように見える庭。ローデン卿の屋敷の白い花とは、何もかもが正反対だった。
「……三年ぶりだ」
門の前で、リーゼが小さく言った。
「砦に行ってから、一度も戻っていない。……母が死んでからは、この家はずっと、こんな風に静かだった」
俺は、半歩だけ後ろに立っていた。約束どおりに。
◇
通された書斎は、壁一面が本で埋まっていた。
その奥の机に、赤みがかった髪の男が座っていた。監察院の傍聴席で腕を組んでいた、あの男だ。
ハインリヒ・アーベント伯爵。
顔だちはリーゼによく似ていた。ただ、その目には、リーゼのような熱が一つもなかった。
「……平民を連れてきたのか」
第一声が、それだった。
「私の部下です。第七歩兵隊の、トーマ」
「知っておる。監察院の地下牢に入っていた男だ」
伯爵は、俺の方を一度も見なかった。まるで、そこには誰もいないかのように。
「用件を言え。私は忙しい」
「……再審問の申し立てを、ありがとうございました」
「礼を言いに来たのなら、もう帰ってよい」
「それと、もう一つ」
リーゼの背中が、まっすぐに伸びた。
「ダンケル家との縁談は、お断りします。私は、アーベント家の娘としてではなく、黒狼砦の副司令として生きます」
書斎が、しんと静まり返った。
伯爵は、書類に目を落としたまま、ペンを置いた。
「縁談など、もうない」
「……え」
「帝国に砦を売ろうとした男の家と、縁を結ぶ馬鹿がどこにおる。とうに破談だ。お前がわざわざ断りに来るまでもない」
リーゼの拳が、震えた。
三年ぶりに家の門をくぐって、ようやく口にした言葉だった。その言葉を、この人は、書類の間に挟まった埃のように払いのけた。
「……そうですか」
「用件はそれだけか」
「――いいえ」
リーゼは、一歩前に出た。
「父上。私は、聖女の儀を止めます」
伯爵の手が、初めて止まった。
「あの儀式は、聖女の命を削る。セラ殿は、私の部下の命を救うために、もう命を削った。……今度は、私たちが救う番です」
伯爵は、ゆっくりと顔を上げた。
その目に、何かが一瞬だけ揺らいだ気がした。けれど、それはすぐに、もとの冷たい水面に戻った。
「……愚かな。教会と宰相を敵に回すつもりか」
「はい」
「砦で少し手柄を立てたくらいで、思い上がるな。……王都を出ろ。今すぐ、砦に帰れ」
「帰りません」
「――ならば、勝手にしろ」
伯爵は、再びペンを取った。もう、こちらを見るつもりはないようだった。
「ただし、二度とアーベントの名は名乗るな」
◇
廊下に出た瞬間、リーゼの肩から力が抜けた。
「……すまない。少しだけ、待ってくれ」
壁に手をついて、リーゼは下を向いた。泣いてはいなかった。ただ、息を整えていた。
俺は、何も言わずに、その後ろに立っていた。
後ろにいる、と約束した。だから、ここが俺の場所だ。
「……逃げなかったよ、トーマ」
「はい。見てました」
「そうか……そうか」
リーゼは一度だけ鼻をすすって、顔を上げた。いつもの副司令の顔だった。
「行くぞ。こんな家に、用はない」
◇
玄関で、俺は一人、初老の執事に呼び止められた。
「旦那様から、こちらを。……お嬢様には内密に、と」
手渡されたのは、小さく折りたたまれた紙きれだった。
先を行くリーゼの背中を確かめてから、そっと開く。
少し震えた、細い文字だった。
『娘を王都から連れ出せ。ここは宰相の庭だ。――この家は見張られている。二度と来させるな』
俺は、伯爵邸の二階を振り返った。
書斎の窓の内側で、カーテンが、わずかに揺れたような気がした。
――見張られている。
さっきの冷たい声は、誰に聞かせるためのものだったのか。
俺は紙きれを懐の奥にしまって、リーゼの後を追った。
今はまだ、言えない。
内密に、と書かれていたからではない。後ろを振り返らずに歩いていく、その背中が、今はあまりにもまっすぐだったからだ。




