第31話 目覚めない聖女
地下牢の扉が開いたのは、再審問の日の夕方だった。
「トーマ。嫌疑は晴れた。……出ろ」
監察官の一人が、気まずそうに目を逸らしながら鍵を回した。三日前に俺を「帝国の間者」と呼んだ男と、同じ男だった。
枷が外れる。手首には、赤い痕がくっきりと残っていた。
階段を上りきったところに、二人が立っていた。
「……遅かったな」
リーゼが、腕を組んだまま言った。目の縁が、少しだけ赤い。
その隣で、ガイが黙って俺の肩をつかんだ。痛いくらいに強かった。
「……すみません。心配かけました」
「心配などしていない」
「嘘ですよね」
「……誰に似たんだ、その返し」
リーゼは、ほんの少しだけ笑った。それから、すぐに真顔に戻った。
「セラ殿が、まだ目を覚まさない」
◇
大聖堂の正門は、閉ざされていた。
白い法衣の門番が二人。その奥の石段の上に、太った司祭が一人、両手を腹の上で組んで立っている。
「おや、これはこれは。審問の英雄殿」
グレゴール司教補は、脂ぎった笑顔のまま、俺たちを見下ろした。
「聖女様にお会いしたい」
「なりませんなあ」
司教補は、大げさに首を振った。
「聖女様は、古の法などという無茶な祈りのせいで、深くお眠りになっておられる。俗世の者が近づけば、お体に障りましょう。……そもそも、誰のせいでこうなったとお思いで?」
言葉の最後だけが、ねっとりと低くなった。
「聖女様のお命を削らせたのは、あなた方だ」
胸の奥を、冷たい手でつかまれたような気がした。
――違う、とは言えなかった。
古の法の祈りを止められなかったのは、俺だ。牢の中で「だめだ」と言いながら、結局セラに助けられたのは、俺だ。
「……あなたは、毎日彼女に祈らせていたでしょう」
「聖女様のお務めですからな」
グレゴールは、平然と言った。
「祈りは聖女様のお務め。お務めで疲れるのは当然のこと。……ですが、あなた方の勝手な審問は、お務めではない。お分かりかな?」
門が、目の前で閉まった。
◇
「……あの豚」
大聖堂からの帰り道、ガイがぼそりと言った。ガイが誰かを悪く言うのを、俺は初めて聞いた気がした。
「斬るか」
「斬りません」
「冗談だ」
「目が冗談じゃないです」
リーゼは、黙って前を歩いていた。その背中が、いつもより少しだけ小さく見えた。
「……リーゼさん」
「何だ」
「お父さんに、頭を下げてくれたって。セラから聞きました」
リーゼの足が、一瞬だけ止まった。
「……再審問の申し立てには、伯爵家の名前が要った。それだけだ」
「それでも、ありがとうございます」
「礼はいい」
リーゼは振り返らずに言った。
「父には、まだちゃんと話していない。縁談のことも、これからのことも。……頭を下げただけで、逃げるように帰ってきた」
――『私の後ろに、立っていてくれないか』
宿場町の石橋の上で聞いた声を、思い出した。
「次は、俺も行きます」
「……え」
「約束しましたから。後ろにいるって」
リーゼは、しばらく何も言わなかった。
それから、夕焼けの中で、小さく頷いた。
「……ああ。頼む」
◇
その夜。安宿の一室で、俺は記憶をたどっていた。
帳面は、もうない。けれど、書いてあったことは全部頭の中にある。
聖女の儀。原作では、王都の大聖堂の地下にある「儀の間」で行われる。聖女が三日三晩祈り続け、灰の疫病を王国から祓う――という建前の儀式。
その実態は、聖女の命を、まとめて吸い上げる儀式だ。
原作のセラは、儀の後で髪が灰色に変わり、一年かけて静かに弱って死ぬ。
けれど、今のセラは、すでに古の法の祈りで命を削っている。
もし、この上で儀に臨んだら。
一年も、もたないかもしれない。
「……あと二か月。いや、二か月もない」
呟いた時だった。
廊下を駆けてくる足音がした。扉が勢いよく開いて、ガイが顔を出した。
「トーマ。下の酒場で、触れ役が叫んでる」
「何を」
「――聖女の儀を、早めるってよ」
俺は、椅子を蹴って立ち上がった。
窓の外から、触れ役の声が、夜の通りに響いていた。
「――宰相閣下のお達しである! 聖女様のお体の回復を祈願し、聖女の儀を前倒しし、三十日後の新月の夜に執り行う!」
三十日後。
新月の夜。
黒狼砦が、シナリオどおりに落ちるはずだった夜と、同じ月の形。
――『物語を、進めよう』
どこかで、あの若い声が、楽しそうにそう言った気がした。




