第30話 聖女の審問
「……何をしに来た」
俺は、鉄格子越しにフードの奥をにらんだ。顔は、どう目を凝らしても見えなかった。青白い光が、影を小さく揺らしているだけだ。
「顔を見に来たんだよ。僕の物語を、ここまで泥だらけにしてくれた人の。……思ってたより、普通の顔だね」
「物語じゃない。ここでは、人が本当に死ぬんだ」
「知ってるよ。だから美しいんじゃないか」
声は、本当に不思議そうだった。
「全員が、決められた場所で、決められたように死んでいく。一人も余らず、一人も欠けずに。そうして初めて、灰の王は目を覚ます。……君は、その一度きりの完成品に、落書きをしてるんだよ」
フードの人影は、ゆっくりと立ち上がった。
「明後日の審問、楽しみにしてるよ。君の物語が、どこまで続くのか」
青白い光ごと、その人影は階段の上の闇に溶けていった。
――男なのか、女なのかさえ、最後まで分からなかった。
◇
再審問の日。
監察院の大広間は、前回よりもさらに人で埋まっていた。『聖女の審問』が百年ぶりに開かれるという噂が、王都中に広まっていたからだ。
宰相の席は、空いていた。「急な政務」とのことだった。その背後の影も、もちろんいない。
傍聴席には、リーゼとガイ。その少し後ろに、赤みがかった髪の中年の男――アーベント伯爵が、腕を組んで座っていた。
証人席には、ローデン卿。
そして――大広間の中央に、白い法衣の少女が一人、立っていた。
「――古の法に従い、聖燈教会の聖女セラが、真の祈りを捧げる」
監察官が宣言すると、セラは床に膝をつき、両手を組んだ。
その瞬間、大広間の空気が変わった。
セラの体から、白い光が、湧き水のように溢れ出した。光は床を伝い、壁を伝い、大広間を静かに満たしていく。砦で見た癒やしの祈りとは、比べ物にならない量だった。
そして――その光が強くなるほど、セラの頬から、血の気が引いていくのが、俺にははっきりと見えた。
「……証人、ローデン。もう一度、証言を」
監察官の声に促され、老騎士が立ち上がった。
「……わしは、見ました。新月の夜の後、砦の西の森で、この新兵が仮面の騎士と――」
「――その声は、濁っている」
セラの声が、大広間に響いた。
小さな声だった。それなのに、一番後ろの席まで、はっきりと届いた。
「あなたは、何も見ていない。……あなたは、ずっと、あの人から目を逸らしていた。声がそう言っている。今も、ここでも」
大広間が、息を呑んだ。
「そして、あなたの声の一番奥にあるのは――名前。小さな女の子の名前。……その子のために、あなたは嘘をついている」
老騎士の肩が、大きく震えた。
リーゼが、傍聴席から立ち上がった。その手には、白い花の刻印の入った、黒い帯留めが握られていた。
「……ローデン卿。峠で死んだ刺客は、これをつけていました」
長い、長い沈黙があった。
やがて、老騎士は、疲れ果てたように小さく笑った。
「……聖女の前では、嘘は声を濁らせる。古い法は、ようできておるのう」
そして、初めて、まっすぐに俺を見た。
「――わしは、何も見ておらん。この若者は、帝国の間者ではない。峠の刺客も、ヴィクトルの脱走も、あの帳面を盗んだのも、すべてわしだ」
傍聴席が、崩れるようにどよめいた。
「誰の命令だ!」
監察官が叫んだ。
「わしに命じたのは――宰相府の――」
そこで、老騎士の声が止まった。
手袋の上から、右手の中指が、赤く光っていた。片翼の鳥の指輪。その赤い光が、血管を遡るように手首から腕へ、腕から喉へと、細い紋様を描きながら這い上っていく。
「――ローデン卿!」
俺は、枷のまま駆け寄ろうとして、衛兵に取り押さえられた。
老騎士は、証人席に崩れ落ちた。
喉に刻まれた赤い紋は、片翼の鳥の形をしていた。
「……ああ。やはり、そういうお方だったか」
老騎士は、虚空を見上げていた。もう、俺たちのことは見ていなかった。
「……エルザ。すまんな。……父は、また、間に合わんかった」
それが、最後の言葉だった。
◇
「――セラ!」
リーゼの叫び声で、我に返った。
大広間を満たしていた白い光が、ふっと消えた。その中央で、白い法衣の少女が、糸を切られた人形のように、ゆっくりと床に倒れていく。
衛兵の手を振りほどいて、俺は駆けだした。今度は、誰も止めなかった。
枷のついた腕で、倒れる前の小さな体を、かろうじて受け止めた。軽かった。怖くなるほど。
「……セラ」
「……遅くなかったでしょう」
血の気の失せた唇で、セラは、得意そうに笑った。
「……今度は、私の勝ち。……ちゃんと、助けに来てよね」
そのまま、灰色の瞳が閉じた。
息は、していた。細く、弱く。けれど、確かに。
◇
俺の嫌疑は、その日のうちに晴れた。
セラは大聖堂に運ばれ、三日経っても目を覚まさなかった。「心配ない、聖女様は祈りの後にはよく眠られる」と、グレゴール司教補は脂ぎった笑顔で言った。
そして――証拠品として監察院に預けられていた俺の帳面は、いつの間にか、保管庫から消えていた。
誰が持ち出したのか、誰も知らなかった。
◇
四日目の夜。
リーゼとガイと移った王都の安宿で、俺は一人、扉の下に差し込まれた一枚の紙を拾い上げた。
封もない。宛名もない。
ただ、右下に小さく、片翼の鳥が描かれていた。
そして、その上に、細く整った文字が一行だけ。
『君のリストは読んだ。次は、どの名前から消そうか』
日本語だった。
「消す」。
俺が、マルタにも、セラにも、「必ず消す」と約束した言葉だ。
その同じ言葉を、こいつは、まったく逆の意味で使っている。
俺は、紙を握りつぶして、窓の外を見た。
丘の上の大聖堂が、今夜も白く光っていた。その向こうに、王城の尖塔が、黒い影になってそびえている。
あのどこかに、あいつがいる。
帳面は、もうない。けれど、全部覚えている。二万時間分の、死ぬはずの名前を。
――消させない。
一つも。




