第29話 同郷の声
【幕間 リーゼ】
審問の翌朝。ローデン卿の屋敷を出た私は、王都の安宿の一室で、ガイと向かい合っていた。
あの屋敷には、もう一晩もいられなかった。
「……ガイ。何か、気づいたことはないか。何でもいい」
ガイは、昨日衛兵に組み伏せられた時の痣が残る頬をさすりながら、懐から何かを取り出して、机の上に置いた。
小さな、黒い革の帯留めだった。
「峠で毒を飲んだ、あの刺客のもんです。布を剥いだ時に、ついでにいただいときました」
「……お前、そんなことをしていたのか」
「トーマが、あいつらは賊じゃないって言ったんで。賊じゃねえなら、どこかの家のもんだろうと思って」
私は、帯留めを裏返した。
金具の裏側に、小さな刻印が押されていた。五枚の花弁を持つ、白い花。
――あの屋敷の庭で、一面に咲いていた花。
「……ローデン家の、家臣の印だ」
声が、自分のものではないように聞こえた。
「昨日、屋敷の厩で、同じ帯留めをしてる馬丁を見ました。それで、もしかしてって」
ガイは、いつもどおりの仏頂面だった。けれど、その拳は、白くなるほど握りしめられていた。
峠の刺客は、ローデン卿の手の者だった。
あの人がトーマを救ったのは、芝居だった。
――母の話も。「よう笑う方だった」という声も。
私は、一度だけきつく目を閉じた。それから、開けた。泣くのは、全部終わってからでいい。
「だが、これだけでは足りない。帯留めなど、盗まれたと言い逃れされれば終わりだ。宰相は、私たちの言うことを聞く気がない」
「じゃあ、どうするんすか」
私は、父の書斎で幼い頃に読んだ、古い法典の一節を思い出していた。
「――『聖女の審問』だ」
「なんすか、それ」
「王国ができた頃の古い法だ。審問の場で、証言の真偽が争われた時、聖女に『真の祈り』を捧げてもらう。聖女の前では、嘘は声を濁らせる。……もう百年以上、誰も使っていないが、廃されてはいないはずだ」
だが、それには、聖女の祈りが要る。
トーマが、あれほど「祈らなくていい」と言っていた、祈りが。
◇
その日の夕方。
地下牢の鉄格子の前に、白い法衣の小さな人影が立った。
「……告解よ。罪人には、聖女に罪を告白する権利があるの」
セラは、付き添いの衛兵を一瞥で階段の上まで下がらせると、俺の前にしゃがみ込んだ。
「……ひどい顔」
「すみません」
「謝らないで。……あの女騎士様から、伝言があるの」
セラは、小声で、リーゼとガイが見つけたものを話した。帯留めの白い花。そして――『聖女の審問』。
「……だめです」
俺は、鉄格子をつかんでいた。
「それは、一番重い祈りです。古い法の祈りは、今の祈りの何倍も命を削る。……『聖女の儀』の前に、あなたが倒れたら――」
「やっぱり、知ってるのね」
セラは、小さく笑った。
「でも、もう決めたの。……あなたは、私を助けるって言った。だったら、あなたがここにいたら、私は助からないでしょう」
「それとこれとは――」
「同じよ。……今度は、私の番」
灰色の瞳が、まっすぐに俺を見ていた。その瞳には、一片の嘘もなかった。
「それに……私、門のところで、あのおじいさんの声を聞いた時、ちゃんと言えばよかったの。『あの人の声は、悲しいだけじゃない。嘘をついている声だ』って」
――あの夜、セラが飲み込んだ言葉。
「……俺が、聞かなかったんです。信じたかったから」
「そうね。だから、おあいこ」
セラは、鉄格子の隙間から手を入れて、俺の枷の上に、そっと自分の指を重ねた。冷たい指だった。
「明後日、再審問が開かれる。女騎士様が、お父様に頭を下げて、申し立てを通したのよ。……あの人、あなたのために、一番会いたくない人に会いに行ったの」
「……」
「ちょっと、悔しいけどね」
セラは立ち上がり、法衣の裾を払った。
「待ってて。……今度は、私が『遅い』って言われないようにするから」
◇
その夜。
監察院の鐘が、午前零時を告げた。
階段の上で、重い扉が開く音がした。衛兵の足音はしなかった。
代わりに、軽い靴音が一つ。こつ、こつ、と、階段を下りてくる。
手燭はなかった。それなのに、その人影の周りだけが、なぜかぼんやりと青白く光っていた。
深いフード。細い肩。監察院の大広間で、宰相の背後に影のように控えていた――
人影は、鉄格子の前で立ち止まった。
それから、状況にそぐわないほど穏やかな、若い声で言った。
「――はじめまして、同郷の人」
日本語だった。
この世界に来てから、一度も耳にしたことのない響き。寝言でも、帳面の文字でもない。生きた人間の口から出た、俺の前世の言葉。
全身の毛が、逆立った。
「……お前が、『S』か」
反射的に、俺も日本語で返していた。
フードの奥で、人影が、うれしそうに笑った気がした。
「うわ。本当に通じた。……いいな、久しぶりだ。この世界で、この言葉で話せるの」
そして、フードの人影は、鉄格子の前にゆっくりとしゃがみ込んだ。まるで、友達の部屋に遊びに来たように。
「君、何時間やった? アシュレク。……僕はさ、たぶん、君よりはちょっとだけ多いよ」




