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第28話 老騎士の約束

監察院の地下牢は、黒狼砦の地下水路と同じ匂いがした。

湿った石と、錆びた鉄と、古い藁の匂い。

手首には枷。壁の高いところにある小さな明かり取りから、月の光が細く差し込んでいる。

俺は、冷たい床に座ったまま、ずっと同じことを考えていた。

――なぜだ。

焚き火の前の杯。峠の一閃。「あとは、わしに任せておけ」。

どれが嘘で、どれが本当だったのか。それとも、最初から全部――

「――眠れんか」

鉄格子の向こうから、聞き慣れた声がした。

老騎士が、手燭を一つ持って立っていた。昨夜までと同じ、穏やかな顔で。

「……眠れると思いますか」

「思わんな。……許せ。今夜は、杯は持って来られんかった」

ローデン卿は、牢の前の小さな椅子に腰を下ろした。見張りの衛兵は、いつの間にか姿を消していた。

◇

「……いつからですか」

俺は、それだけを聞いた。

「いつから、『あの方』のために動いていたんですか」

老騎士は、少しだけ目を見開いた。それから、かすかに笑った。

「やはり、お前は賢いな。……指輪か」

「リンデ村の壁に、同じ紋がありました」

「そうか。あの方は、ああいうところで少しだけ遊びが過ぎる」

ローデン卿は、手袋を外した。片翼の鳥が刻まれた指輪が、手燭の火を受けて鈍く光った。

「最初からだよ、トーマ。お前が『夢』で砦を守ったという報せが届いた日に、あの方から手紙が来た。『その新兵を見張れ』とな」

「……援軍も、ですか」

「あれは、わしの独断だ。ヴィクトルがあそこまで愚かだとは思わんかった。砦が本当に落ちて、お前まで死なれては困る。あの方は、お前に興味を持たれたのでな」

老騎士は、指を折って数えるように、静かに言葉を並べた。

「ヴィクトルの護送車の鍵を開けたのは、わしの部下だ。あの男は、まだ使い道があるそうだ。……峠の刺客も、わしの手の者だ。お前に信じてもらうためにな」

「……一人、死にましたよね」

声が、震えた。

「あの人は、最後にあなたを見た。助けを求めるような目で。……違う。あれは、命令を待つ目だったんだ」

「そうだ。あの者には、病の母がおった。約束どおりの金は、もう送ってある」

老騎士の声には、何の抵抗もなかった。それが、何よりも恐ろしかった。

「帳面は、昨夜だ。お前が聖女と話しておる間にな。……寝台の枕の下というのは、若い者が大事なものを隠す場所としては、いささか素直すぎるな」

◇

「……なぜですか」

俺は、鉄格子を握りしめていた。

「あなたは、身分より事実を重んじる人だと、リーゼさんは言っていた。リーゼさんのお母さんの護衛騎士だった。……それも、全部嘘だったんですか」

「いいや。それは本当だ」

老騎士は、初めて俺から目を逸らした。

「リーゼ嬢の母上は、よう笑う方だった。わしの娘も、よう懐いておった。……エルザといってな」

廊下の肖像画。白い花を抱いた、金色の髪の少女。

「三十年前だ。北の国境で、灰の疫病が出た。わしは戦場におった。娘が病に倒れたという報せを受けても、帰れんかった。……騎士の務めだと、自分に言い聞かせてな」

手燭の火が、小さく揺れた。

「帰った時には、墓の上に、あの子の好きだった白い花が咲いておった。……それから三十年、わしはあの庭に、同じ花を植え続けておる」

『わしにもな、変えたい過去がある』

「あの方は、約束してくださった」

老騎士の目が、初めて燃えるような光を帯びた。

「物語が『正しく』終われば、灰の王が目覚める。灰の王は、灰の中から死者を呼び戻す。灰の疫病で死んだ者なら、なおさらだと。……エルザに、もう一度会わせてくださると」

「それは――」

それは、全滅エンドだ。

リーゼも、セラも、ルカも、マルタも、王国も帝国も、全部死ぬ。その後で灰の王が目覚める。二万時間遊んでも、その先に何があるのかは、誰も知らない。

「……そのために、何万人が死ぬんですよ」

「知っておる」

「リーゼさんも死ぬんですよ。あなたが守っていた人の、娘さんが」

老騎士は、長い間黙っていた。

それから、ゆっくりと立ち上がった。

「……トーマ。お前は、未来を変えるといい。わしは、過去を取り戻す」

焚き火の前で聞いたのと、同じ言葉だった。

「向いている方向が逆なだけで、お前とわしは、よく似ておる。……だから、すまんが、道を譲るつもりはない」

◇

老騎士は、手燭を持って階段の方へ歩き出した。

そして、一度だけ立ち止まった。

「そうだ。一つ、伝えておかねばならん」

「……」

「あの方が、お前に会いたいと仰っておる。……明日の夜、ここへおいでになるそうだ」

手燭の明かりが、階段の上へ消えていった。

闇の中で、俺は自分の手を見つめた。

この人も、帳面に名前がない人だった。ゲームの外で、名前もなく死んでいくはずの人だと、勝手に思っていた。

違った。

この人は、ゲームの外で、ずっと、この物語を動かしていた側の人間だったんだ。

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