第27話 監察院
審問の朝、帳面がなかった。
寝る前には、確かに枕の下に入れたはずだった。寝台の下も、外套の裏も、荷物の底もひっくり返した。どこにもない。
「……落としたのか、俺」
「何をだ」
廊下で待っていたガイが、眉をひそめた。
「帳面です。いつもの」
「あの古代文字のやつか。……昨日の夜、聖女様が来た時じゃねえのか」
「セラはそんなこと――」
言いかけて、口をつぐんだ。セラは嘘をつかない。けれど、それを証明する方法もない。
「……後で探します。今は審問です」
胸の奥に、冷たい小石が一つ転がったような感覚があった。
◇
監察院の大広間は、天井の高い、冷たい石の部屋だった。
正面の一段高い席に、三人の監察官。その右手、さらに一段高い席に、灰色の髭を蓄えた痩せた男が座っている。
王国宰相。
ゲームの画面では、いつも玉座の陰に立っていた男だ。その背後には、深くフードをかぶった細身の人影が一人、影のように控えていた。宰相の右腕とされる宮廷魔導師――顔は見えない。
左手の傍聴席には、着飾った貴族たちが並んでいた。その中に、リーゼとよく似た赤みがかった髪の、厳めしい顔の中年の男がいた。リーゼが、そちらを見ないようにしているのが分かった。
そして、証人席には、白髪の老騎士。
ローデン卿は、俺と目が合うと、いつものように穏やかに頷いてくれた。
◇
審問は、最初は順調だった。
リーゼが、新月の夜に何が起きたのかを、淡々と述べる。ベルントの自白の記録が読み上げられる。帝国兵四十二人とダンケル家の私兵十八人の捕縛。金貨の箱が三つ。
傍聴席が、ざわめいた。
「――そして、これが、ヴィクトル・ダンケルの私物から見つかった手紙です」
リーゼが『S』の手紙を差し出した。
「封蠟は、天秤と剣。宰相府の紋章です」
大広間が、しんと静まり返った。
全員の視線が、宰相に集まる。
宰相は、手紙を一瞥しただけだった。
「偽物だ」
乾いた声だった。
「宰相府の封蠟は、毎月刻みを変えておる。この刻みは、半年も前に廃したものだ。……誰かが、宰相府を陥れるために作ったのだろう。たとえば――帝国が、な」
「帝国、ですか」
「そうだ、アーベント副司令。わしは、むしろ別のことが気になっておる」
宰相の目が、ゆっくりと俺に向けられた。
「新月の夜、帝国軍を率いていた仮面の騎士――帝国第三王子ルカは、落とし格子に閉じ込められた自軍を見捨て、戦わずに兵を引いたと聞く。……おかしな話ではないか。まるで、最初から引き際を知っていたかのようだ」
「それは――」
「さらに、その新兵は、補給隊の護衛の折にも、尾根道で仮面の騎士と一騎打ちをし、互いに傷一つ負わずに別れたとか」
宰相は、指先で机をこつ、と叩いた。
「新兵が、帝国の王子の動きを、なぜそれほど正確に知っておる」
傍聴席が、どよめいた。
「待ってください! トーマは、何度も砦を――」
「アーベント副司令。あなたの証言は、もう十分に聞いた」
宰相は、リーゼの声を片手で制した。
「では、もう一人の証人に聞こう。……ローデン卿。新月の夜、援軍を率いて砦に入ったあなたは、何を見た」
◇
ローデン卿が、ゆっくりと立ち上がった。
俺は、ほっと息を吐いていた。
この人なら、本当のことを言ってくれる。あの夜、この人は、確かに俺たちの戦いを見ていた。
『お前たちは、真実を話せばよい。あとは、わしに任せておけ』
老騎士は、監察官たちに向かって一礼した。
そして、静かに口を開いた。
「――わしは、見ました」
「何を」
「戦いの後、夜明け前。砦の西の森で、そこにおるトーマという新兵が、仮面の騎士と二人きりで言葉を交わしておるのを」
息が、止まった。
「……え」
「声までは聞こえませなんだ。だが、仮面の騎士は、この新兵に何かを手渡し、新兵はそれを懐にしまった。……あれは、密談でした」
傍聴席が、爆発したようにどよめいた。
「ろ、ローデン卿……?」
リーゼの声が、かすれていた。
老騎士は、リーゼを見なかった。俺も見なかった。ただ、監察官たちだけを見つめて、懐から何かを取り出した。
見慣れた、手垢で黒ずんだ表紙。
俺の、帳面だった。
「そして、これが、この新兵の部屋から見つかったものです。読めぬ文字で、人の名と、日付と、場所がびっしりと書いてある。……帝国の暗号書でしょう」
宰相が、満足げに頷いた。
その背後で、フードの人影が、ほんのわずかに首を傾けた気がした。
「――衛兵。その者を捕らえよ」
両腕が、後ろからつかまれた。
「待て! 待ってください! それは違う! トーマは――ローデン卿、なぜですか!」
リーゼの叫び声が、遠くに聞こえた。ガイが衛兵を二人突き飛ばし、三人目に組み伏せられるのが見えた。
俺は、引きずられながら、証人席の老騎士を見た。
焚き火の前で、杯を二つ持ってきてくれた人。峠で、刺客から俺を救ってくれた人。肩に置かれた、大きくて温かい手。
ローデン卿は、最後まで俺を見なかった。
ただ、手袋をはめた右手の中指を、左手の親指で、ゆっくりと撫でていた。
――その指には、あの指輪がある。
宿場町の油灯の下で一瞬だけ見えた、黒ずんだ銀の指輪。小さな石の中に刻まれた、細い線の紋。
その瞬間、ようやく思い出した。
あの形を、どこで見たのか。
リンデ村の焼け跡。壁に書かれた、『シナリオを壊すな』という日本語の、その最後に。
署名のように小さく描かれていた、片翼の鳥の紋。あの時は、ただの落書きだと思って、帳面に写しただけで消してしまった、あの紋。




