第24話 峠の刺客
ヘルデの宿場町を出て二日目。俺たちは、灰鷹峠に差しかかっていた。
切り立った崖に挟まれた細い道。馬が二頭並べばいっぱいになる幅で、左手は深い谷だ。ローデン卿の騎士が五騎前を進み、五騎が後ろを固めている。
「……嫌な地形ですね」
「同感だ」
リーゼが、手綱を握ったまま低く答えた。
「上を取られたら、逃げ場がない」
ガイは何も言わずに、背中の大剣の留め紐を緩めていた。
◇
峠の半ばを過ぎた頃だった。
頭上で、石が一つ、からりと転がった。
「――上だ!」
叫んだのはガイだった。
次の瞬間、崖の上から黒い影が六つ、七つ、雨のように降ってきた。黒い布で顔を覆い、短い曲刀を手にしている。前後の騎士たちの馬が棹立ちになり、細い道はたちまち混乱に呑まれた。
「賊か!」
「違う」
俺は、降りてきた男たちの動きを見ていた。
賊なら、まず荷を狙う。馬を狙う。金目のものを狙う。
こいつらは、どれも狙っていない。
七人の目が、まっすぐに――俺を見ていた。
「トーマ、下がれ!」
リーゼの剣が、最初の一人の曲刀を弾いた。刃に、赤い炎の刻印が走る。
ガイの大剣が、二人目を馬ごと崖の壁に叩きつけた。
三人目が、俺の馬の脚を払った。年寄りの葦毛が悲鳴を上げて横倒しになり、俺は地面に投げ出された。
転がる。槍は、手から離れていた。
顔を上げると、黒い布の男が、もう目の前で曲刀を振りかぶっていた。
――間に合わない。
「借ります、リーゼさん!」
叫ぶと同時に、左腕の刻印が熱を持った。
「写し身」。一戦だけ、仲間の技を写す、ハズレの刻印。
頭の中に、毎朝東壁で見てきたリーゼの剣筋が、焼きつくように流れ込んでくる。腰の短剣を抜いた。リーゼから借りたままの、母親の形見の短剣だ。
振り下ろされた曲刀の、根元を受ける。手首を返す。リーゼがいつもやるように、半歩だけ前に出て、相手の肘の内側に刃を滑らせた。
男が呻いて、曲刀を取り落とした。
「……やるじゃないか」
背中合わせに、リーゼの声がした。いつの間にか、俺の後ろに回り込んでいた。
「後ろには、立ってくれと言ったはずだが」
「すみません。今日は、そっちが後ろで」
「……生意気な」
けれど、その声は少しだけ笑っていた。
◇
四人目と五人目が、同時に来た。
リーゼが一人を受け止める。もう一人の刃が、俺の脇腹へ――
その時、白い風が吹いた。
いや、風ではなかった。
白髪の老騎士が、馬上から身を乗り出し、長剣を一閃させていた。
黒い布の男が二人、まとめて道に転がった。
「――若い者に手を出すとは、無粋な連中だ」
ローデン卿は、馬を返しながら静かに言った。その剣には、刃こぼれ一つなかった。
残りの刺客たちは、それを見るなり、崖の上へ縄を伝って逃げ去った。あっという間の出来事だった。
◇
捕らえられたのは、俺が腕を斬った一人だけだった。
「誰に頼まれた」
リーゼが、男の喉元に剣を突きつけた。黒い布を剥ぐと、まだ若い男の顔が現れた。
男は、俺の顔を見た。それから、なぜか――ローデン卿の方を、一瞬だけ見た。
「……言えば、助かるのか」
「話の中身による」
男が、口を開きかけた。
その時、男の顔色が変わった。
喉を押さえ、目を見開き、口の端から黒い泡が溢れた。体が二度、三度大きく跳ねて、それきり動かなくなった。
「……毒だ」
ガイが、男の口元を嗅いで顔をしかめた。
「奥歯に仕込んでやがった」
「最初から、捕まったら死ぬつもりだったということか」
リーゼは剣を収めた。悔しそうに、唇を噛んでいた。
俺は、死んだ男の顔を見下ろした。
この男は、最後に何を言おうとしたのだろう。そして、なぜ、俺ではなくローデン卿を見たのだろう。
――助けを求めるように見えた。
いや、違う。あれは、たぶん。
「……トーマ」
肩に、皺だらけの手が置かれた。
「怪我はないか」
「……はい。卿のおかげです」
「なに、年寄りの数少ない取り柄だ」
ローデン卿は、いつもの穏やかな笑顔で俺を見ていた。
「この者らは、お前を狙っておった。お前の『夢』を、よほど邪魔に思う者がおるのだろう。……王都に着くまで、わしのそばを離れるでないぞ」
その言葉に、俺は深く頭を下げた。
ヴィクトルの手先か、それとも「S」の刺客か。どちらにしても、この老騎士がいなければ、俺は今頃、峠の谷底だった。
さっきの小さな違和感は、感謝の中に溶けて消えた。
【幕間 ローデン】
夜。峠を下りた先の野営地。
老騎士は一人、天幕の中で手袋を外した。
中指の指輪を、親指でゆっくりと撫でる。黒ずんだ銀の台に嵌まった小さな石の奥で、細い線の紋が、蝋燭の火を受けて一瞬だけ光った。
「……また一人、若い命が散ったか」
誰に言うともなく、老人は呟いた。
「……すまんな」
天幕の外で、若い騎士たちの笑い声がしていた。あの新兵の少年と、大柄な友人と、炎の剣の娘の声も、その中に混じっている。
老騎士は、その声に耳を傾けるように、しばらく目を閉じていた。
やがて、静かに指輪をはめ直し、手袋で覆った。
「……あと少しだ。あと少しで、お前に会える」




