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第23話 宿場町の夜

旅の六日目。俺たちは、峠の手前の宿場町ヘルデに着いた。

街道沿いに宿が六軒、酒場が三軒、鍛冶屋が一軒。砦暮らしの目には、それだけでもう大都会に見えた。

「トーマ、口が開いてるぞ」

「開いてません」

「よだれも出てる」

「出てません」

ガイは鼻で笑うと、さっさと馬を厩に預けに行ってしまった。

ローデン卿の騎士たちは別の大きな宿に入り、俺たち三人は、少し離れた小さな宿に部屋を取った。ローデン卿が「若い者は、年寄りの小言のない宿のほうがよかろう」と笑ったからだ。

◇

夕食の後。

宿の裏手の井戸で水を汲んでいると、二階の窓から、リーゼが顔を出した。

「トーマ。少し、歩かないか」

◇

宿場町の夜は、砦の夜とは違う匂いがした。

焼いた肉と、甘い菓子と、酒と、人の匂い。通りの両側に吊るされた油灯が、石畳をぼんやりと照らしている。

リーゼは、いつもの鎧ではなかった。旅の間だけ着ている、灰色の簡素な外套。髪も、きっちりとは結っていない。

それだけで、なぜか、まともに顔が見られなかった。

「……何をきょろきょろしている」

「いえ。屋台が珍しくて」

「そうか」

リーゼは、通りの端の屋台で、蜂蜜を塗った焼き菓子を二つ買った。一つを、黙って俺に差し出す。

「……ありがとうございます」

「礼はいい。……私が、食べたかっただけだ」

並んで、町外れの石橋の欄干にもたれた。川の音が、下から聞こえていた。

「……母の話を、ローデン卿から聞いたのは、初めてだった」

しばらくして、リーゼがぽつりと言った。

「母は、私が八つのときに死んだ。病でな。父は、それから人が変わった。笑わなくなって、家の格と、家の名前のことばかり言うようになった」

「……」

「私が剣を取ったのは、たぶん、父への当てつけだ。家の名前のための縁談なんか、まっぴらだった。……だから、砦に逃げた」

リーゼは、焼き菓子を一口かじって、少しだけ笑った。

「逃げた先で、お前に会った」

胸の奥が、変な音を立てた気がした。

「トーマ。王都に着いたら、私は父に会う。縁談を断って、アーベント家の娘としてではなく、黒狼砦の副司令として生きると、自分の口で言う」

「はい」

「……その時」

リーゼは、欄干を握る手に力を込めた。

「私の後ろに、立っていてくれないか」

「後ろ、ですか」

「何も言わなくていい。剣も抜かなくていい。ただ、後ろにいてくれれば……私は、たぶん、逃げずにいられる」

油灯の明かりの中で、リーゼの耳が赤いのが分かった。

俺は、二万時間、この世界をゲームとして見てきた。リーゼ・アーベントという名前も、知っていた。灰の峡谷で、たった一行のテキストとして死ぬ女騎士として。

その人が今、俺の隣で、焼き菓子の粉を指につけたまま、俺に「後ろにいてくれ」と言っている。

「……います」

声が、少しかすれた。

「後ろでも、隣でも。リーゼさんが逃げたくないところには、どこにでも」

リーゼは、しばらく黙っていた。

それから、俺の外套の袖を、指先でほんの少しだけつまんだ。

「……隣は、まだ早い」

「……はい」

「……後ろで、いい。今は」

袖をつまむ指は、宿に戻るまで、離れなかった。

◇

宿に戻る途中。

ローデン卿の騎士たちが泊まる大きな宿の前を通りかかった時、ちょうど、老騎士が玄関から出てきた。

「おお、二人とも。夜の散歩か。よいことだ」

ローデン卿は、目を細めて笑った。それから、何も見なかったという顔で、リーゼの袖をつまむ指から目を逸らしてくれた。リーゼが慌てて手を離した。

「卿は、これからどちらへ」

「なに、町の役人に、峠の様子を聞きにな。この先は、少し道が悪い」

老騎士は、手袋をはめ直しながら俺たちの横を通り過ぎた。

その時だった。

油灯の明かりの下で、老騎士の右手が、一瞬だけ見えた。

手袋の下から覗いた中指に、古い指輪がはまっていた。

黒ずんだ銀の台に、小さな石。石の中に、細い線で何かが刻まれている。

――ほんの一瞬で、何が刻まれていたのかまでは、見えなかった。

けれど、俺はその形を、どこかで見たことがある気がした。

どこで、だったか。

「トーマ?」

「……いえ。なんでもありません」

思い出せないまま、俺はリーゼの後について宿の階段を上った。

頭の中では、さっきの袖をつまむ指先の感触ばかりが、何度も何度も繰り返されていた。

だから、その小さな違和感は、すぐに、その夜の幸福の中に紛れてしまった。

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