第22話 空の護送車
旅の三日目。昼過ぎに、前方の街道から一騎の伝令が駆けてきた。
ローデン卿の配下の騎士だった。馬を寄せて何事か耳打ちすると、老騎士の白い眉が、ぴくりと動いた。
「……リーゼ嬢。トーマ。少し来てくれ」
◇
街道から少し外れた林の中に、それはあった。
横倒しになった護送車。鉄格子の扉は、外から開け放たれている。馬はいない。御者台には、矢が二本刺さったままだった。
「……ヴィクトルの、護送車です」
リーゼの声が、低くなった。
砦を出たのは、俺たちより十日も前だ。とっくに王都に着いているはずの車が、ここで、空っぽになって転がっている。
「護送の兵は」
「四人とも、あちらに」
伝令の騎士が、目を伏せて林の奥を示した。そこに何があるのかは、聞かなくても分かった。
俺は、壊れた扉の前にしゃがみ込んだ。
錠前は、壊されていなかった。
鍵で、開けられている。
「……リーゼさん。これ、賊の仕業じゃありません。錠を開ける鍵を持っていた奴がいます」
「護送の兵が持っていた鍵を、奪ったのではないか」
「それなら、なんでわざわざ鍵を……」
「――賊の仕業だろう」
背後から、ローデン卿の静かな声がした。
「この辺りの峠には、昔から質の悪い山賊が出る。ダンケル家ほどの家なら、身代金目当てで襲う輩もおろう。……あるいは、ダンケル家の私兵の残りが、主を取り返しに来たか」
老騎士は、四人の兵が横たわる方へ向かって、静かに胸に手を当てた。
「どちらにせよ、ヴィクトルは逃げた。王都の監察院には、わしから早馬を出しておこう。……すまんな、リーゼ嬢。わしの手の者を、護送につけておくべきだった」
「いえ。卿のせいでは」
リーゼは首を振った。けれど、その拳は固く握られたままだった。
俺は、空っぽの護送車を見つめた。
ゲームのアシュレクでは、ヴィクトルは伝令の台詞一行にしか出てこない。『ダンケル将軍、本陣より離脱!』――灰の峡谷で撤退の鐘を鳴らさずに逃げた男。
逃げた。また、逃げた。
シナリオの修正力、とでもいうものがあるのだとしたら――あの男は、何度でも物語の中に戻ってくるのかもしれない。
◇
その夜は、誰もあまり口を利かなかった。
ガイは焚き火から少し離れた木の根元で、大剣を抱えたまま目を閉じている。眠っているのか起きているのかは、相変わらず分からない。
リーゼは早々に天幕に引っ込んだ。
俺が一人で火の番をしていると、また、ローデン卿がやってきた。
「眠れんか」
「……少し」
「わしもだ。年を取ると、夜が長くてな」
老騎士は、昨夜と同じように杯を二つ持っていた。今夜のそれは、湯ではなく、薄い葡萄酒の香りがした。
「……ヴィクトルのことを、考えておったのだろう」
「はい。あいつは、俺の名前を知っている誰かの手先です。逃げたのなら、また来ます」
「そうかもしれんな」
ローデン卿は、炎を見つめたまま、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと言った。
「トーマ。お前は、未来を変えようとしておるのだな」
心臓が、一つ大きく跳ねた。
「……どうして、そう思うんですか」
「目を見れば分かる。お前の目は、まだ起きておらんことを見ておる目だ。……そして、それを起こさせまいとしておる目だ」
老騎士は、杯の葡萄酒をゆっくりと揺らした。
「わしにもな、変えたい過去がある」
「過去、ですか」
「ああ。もう何十年も前のことだ。わしがもう少し賢ければ、もう少し早く駆けつけておれば――失わずに済んだものがあった」
炎の明かりが、老人の顔の深い皺に影を落としていた。
「未来は変えられる。だが過去は、変えられん。……それが、ときどき、どうにもやりきれなくてな」
「……」
俺は、何も言えなかった。
未来を知っていて、変えようとしている俺。過去を悔いて、変えられずにいるこの老人。
向いている方向が逆なだけで、たぶん、抱えているものは似ているのだと思った。
「……すまんな。年寄りの愚痴だ。忘れてくれ」
ローデン卿は、困ったように笑って立ち上がった。
「お前は、お前の未来を変えるといい。わしは、それを見ているのが楽しみなのだ」
◇
老騎士が去った後、俺は懐から帳面を取り出して、焚き火の明かりで開いた。
死ぬはずの名前の一覧。いくつかには、もう線が引いてある。
一番下に、新しく一行を書き足した。
『ヴィクトル・ダンケル――逃亡。行き先不明。協力者あり(鍵を持つ者)』
鍵を持つ者。
護送の兵の鍵を奪ったのか。それとも、最初から鍵を渡されていた誰かがいたのか。
俺は帳面を閉じて、懐の一番奥にしまい込んだ。
林の向こうで、梟が一度だけ鳴いた。




