第2話 新兵の言葉など誰も信じない
「ガイ、ここを動くな。いいか、何があってもだ」
それだけ言い残して、俺は石段を駆け下りた。
向かう先は、東の観測塔。今夜の当直指揮官がいるはずだ。
ゲームの知識を整理する。丘の松明は囮だ。帝国の本隊は、砦の北側を流れる川から地下水路に入り、食糧庫の下から湧いて出る。水路の鉄格子は、砦に潜んでいた間者が何日もかけて削っていた。
そして王国軍は、丘の松明に気を取られて東壁に兵を集め、背中を全部さらす。
そうなる前に、止める。
観測塔の扉を開けると、金糸の後れ毛を撫でつけた若い男が、望遠鏡をのぞいていた。縫い取りの入った外套。手の甲には、青白く光る刻印。
ベルント准騎士。子爵家の三男で、この砦の当直指揮官の一人だ。
ゲームでは、プロローグの最後に「全身を焼かれた指揮官」として一瞬だけ出てくる。
「第七歩兵隊、新兵トーマです! 報告があります!」
「……持ち場はどうした」
「丘の松明は囮です。敵の本隊は、北の地下水路から侵入してきます」
ベルントは望遠鏡から目を離し、俺を頭からつま先まで眺めた。
それから、鼻で笑った。
「水路には鉄格子がある。人間が通れるわけがないだろう」
「その格子が、削られているんです。砦の中に間者が――」
ばしっ、と乾いた音がした。
左の頰が熱い。殴られたと気づいたのは、口の中に鉄の味が広がってからだった。
「平民の新兵が、軍略を語るな」
ベルントはもう俺を見ていなかった。伝令を呼びつけ、速い口調で命じる。
「弓兵をすべて東壁へ。刻印騎士は正門に待機。丘の敵が射程に入り次第、焼き払う」
――ゲームと同じだ。
一字一句、同じ。この命令で砦の背中が空になり、食糧庫の床から湧いた帝国兵に、王国軍は内側から崩される。
「それと、さっき東壁で私語をしていた大男がいたな」
背筋が凍った。
「罰として、北の水門番と交代させろ。一人でだ」
――そうだ。そうだった。
ゲームのガイは、東壁で死んだんじゃない。水門で死んだんだ。帝国兵が最初に突破する、あの場所で。
ゲームでは、ガイは「相方の居眠りを見逃した罰」で水門に回されていた。今夜の俺は居眠りをしなかった。なのに、罰の理由がすり替わっただけで、行き先は同じだ。
運命の方が、帳尻を合わせに来ている。
「……失礼しました」
俺は頭を下げて、観測塔を飛び出した。
◇
第七歩兵隊の兵舎は、砦のいちばん奥、馬屋の隣にある。平民兵の寝床は、馬の寝床よりも後回しだ。
奥の個室、というか物置を叩く。返事はない。もう一度叩く。
「……死にたいのかい、こんな時間に」
扉が開き、不機嫌を煮詰めたような顔が出てきた。
マルタ隊長。四十一歳。第七歩兵隊の隊長で、この砦で一番口が悪く、一番部下を死なせない女。これはゲームの知識じゃない。配属初日に、古参の兵士から聞いた話だ。
ゲームの中のマルタは、一年後の灰の峡谷で、死に際にたった一つ台詞を残すだけだった。
「隊長。帝国軍が、北の地下水路から来ます」
マルタの眠そうな目が、少しだけ細くなった。
「……根拠は」
一番困る質問だった。
前世でゲームをやっていたからです。――言えるわけがない。
「……三日前、水路の鉄格子を見ました。留め具の下半分が、全部新しく削られていました」
嘘だ。配属初日の俺に、水路を見に行く余裕なんてなかった。
マルタは黙って俺を見ていた。長い。十秒か、二十秒か。その間、俺は一度も目をそらさなかった。そらしたら終わりだと分かっていた。
「……嘘だね」
心臓が止まりかけた。
「でも、自分が助かりたくて嘘をつく奴の目じゃない。……誰かが死ぬのを、もう知ってる奴の目だ」
マルタは壁に掛けた剣をつかみ、外套を羽織った。
「第七を叩き起こせ。全員だ。名目は『夜間訓練』。ベルントの坊やには、終わってから私が頭を下げる」
「隊長……」
「勘違いするな。お前を信じたんじゃない。外れていたら、お前を一生厨房の芋むき係にする。それだけだ」
その後ろ姿が、やけに大きく見えた。
◇
第七歩兵隊十二名が、松明も持たずに北へ走る。
順番を待つ理由はない。残り時間は、もう一刻もない。
北の水門は、砦を潤す川を地下に引き込むための石の口だ。太い鉄格子の向こうに、黒い水が音もなく流れている。
その前に、大きな背中が一つ。
ガイだった。
一人で槍を持ち、月を見上げて、たぶん妹の靴のことを考えている。
その背後で――鉄格子が、音もなく内側へ開き始めていた。




