第1話 兵士Cは今夜、居眠りをする
眠い。
とにかく、眠い。
黒狼砦の東壁。夜番の新兵に与えられるのは、錆びた槍が一本と、汗臭い外套が一枚。それから、終わらない夜だけだ。
「……トーマ、おいトーマ。首が曲がってるぞ」
隣で壁にもたれた大男が、小声で笑った。同期のガイだ。俺より頭ひとつ背が高く、腕は俺の足くらい太い。そのくせ声だけはやたらに優しい。
「曲がってない。考え事をしてたんだ」
「白目むいて考え事する奴を、俺は初めて見た」
反論できなかった。
王国軍第七歩兵隊に配属されて三日。農村の三男だった俺は、食い扶持を減らすために兵になった。ここで言う「兵」とは、貴族様の刻印騎士が魔法を撃ち込むまでの間、盾の代わりに立っている人間のことだ。
だから、せめて夜番くらいは真面目にやろうと思っていた。思っていたんだが。
「なあトーマ。俺さ、給金が出たら、妹に靴を買ってやるんだ」
「その話、今日で三回目だぞ」
「何回でも言うさ。年は十でな、足がこれくらいで」
ガイが指で小さな大きさを作る。無骨な大男が、妹の話になると子供みたいな顔になる。それを見ていると、だんだんまぶたが重くなっていった。
風がやんだ。
虫の声が遠くなる。
こん、と兵帽が石壁に当たる音がして――
――その夜、東壁の見張りは眠っていた。
それが、黒狼砦の最後の夜になった。
「――っ!?」
跳ね起きた。
心臓が肋骨を内側から殴っている。全身から冷たい汗が噴き出していた。
今のは、夢じゃない。文章だ。黒い画面に、白い文字が一行ずつ浮かんでくる。俺は、あれを知っている。何度も、何十度も、何百度も読んだ。
『アッシュ・レクイエム』の、プロローグだ。
頭の奥で、何かが壊れる音がした。堤防が切れたみたいに、知らないはずの記憶が流れ込んでくる。
蛍光灯の白い光。終電の空いた車両。コンビニの弁当。六畳の部屋で光るモニター。
俺は二十八歳の会社員だった。そして、一本のゲームに人生を溶かしていた。
戦記シミュレーションRPG『アッシュ・レクイエム』。通称アシュレク。
「史上最悪の鬱ゲー」と呼ばれた作品だ。どのルートを選んでも、女騎士リーゼは峡谷で燃え尽き、聖女セラは祈りすぎて息を引き取り、敵国の王子ルカは無人の玉座で剣を自分に向ける。結末は一つ。全滅エンドだ。
「どこかに真ルートがある」という噂を信じて、俺は二万時間を捧げた。結局、一度もたどり着けなかったけど。
そのゲームの、一番最初の一行。
『その夜、東壁の見張りは眠っていた』
……東壁。
俺はゆっくりと、自分の足元を見た。黒狼砦の、東壁。
「いや、待て。待て待て待て」
「どうしたトーマ、悪い夢でも見たか?」
ガイの声が、やけに遠くに聞こえる。
思い出せ。プロローグの一枚絵。燃える砦の上に、二つの月が重なって赤く光っていた。あの世界で「紅月の夜」と呼ばれる、年に一度の夜だ。
顔を上げる。
東の空に、月が二つ。大きい白い月の縁に、小さい青い月が、半分ほど重なりかけていた。重なったところが、うっすらと赤い。
「……嘘だろ」
アシュレクには、立ち絵も名前もない兵士が大勢出てくる。兵士A、兵士B、兵士C。その中でも兵士Cは、プレイヤーの間でちょっとした有名人だった。
全ての悲劇の始まり。砦を落とした居眠り兵。ファンの間でのあだ名は「戦犯」。
設定資料集には、たった一行だけ記述があった。
『兵士C――第七歩兵隊所属の新兵。本名不詳。配属三日目の夜、東壁にて居眠り』
第七歩兵隊。配属三日目。東壁。
全部、俺だ。
「……トーマ?」
ガイが心配そうに俺の顔を覗き込む。その顔を見た瞬間、もう一つ、思い出したくなかったものが蘇ってきた。
プロローグで死んでいく兵士たちの中に、一人だけ、立ち絵のある新兵がいた。大柄で、人の良さそうな顔をした男。血まみれの状態で、女騎士リーゼの腕の中でこう言うのだ。
『妹に……靴を、……』
それが、アシュレクで最初に死ぬ名前のあるキャラクター。
新兵ガイ。
「……なあ、ガイ」
「おう」
「今、何の鐘だ」
「さっき二の鐘が鳴ったばっかりだろ。交代は三の鐘だよ」
三の鐘。
ゲームの中で、帝国軍が砦の内側に現れるのは、三の鐘が鳴る直前だ。画面の隣に「三の鐘」と小さく表示が出ていたのを、俺は覚えている。二万時間もやれば、嫌でも覚える。
つまり、残りはだいたい一刻。前世の感覚で言えば、二時間。
「……笑えねえ」
二万時間やって、一度も変えられなかった運命だ。それを、たった二時間で。しかも、槍一本しか持たない新兵の体で。
でも、俺は知っている。
この夜に何が起きるか。どこから敵が来るのか。誰がどこで、どうやって死ぬのか。
知っているのは、この世界で俺だけだ。
「ガイ。妹さんの靴、俺も半分出すよ」
「は? どうした急に」
「だから、自分で渡せ。絶対にだ」
ガイはきょとんとしていた。そりゃそうだろう。俺だって、自分が何を言っているのか半分分かっていない。
そのときだった。
壁の向こう、砦から遠く離れた丘の上に、いくつもの光が灯った。
松明の列だ。ゆらゆらと、蛇のように丘を下ってくる。
「……なんだあれ。商隊か? こんな夜中に」
ガイが首をかしげる。
俺は知っている。あれは商隊じゃない。帝国軍でもない。松明を持たされた、ただの捕虜たちだ。
王国軍の目を丘に釘付けにするための、囮。
本当の敵は――今この瞬間も、俺たちの足の下を進んでいる。




