第19話 二度目の砦の夜
第19話 二度目の砦の夜
空に、月がない。
黒狼砦の東壁。三か月近く前、俺が居眠りをしかけたその場所で、俺はもう一度、夜番に立っていた。
あの夜と違うのは、二つ。
一つ。俺は、少しも眠くない。
二つ。隣に、ガイがいない。
あいつは今、正門の上の落とし格子の機械室で、息を殺しているはずだ。
「……二の鐘だ」
隣のオルグさん――ではなく、第七の若い兵が、小声で言った。オルグさんはマルタと一緒に裏門だ。
俺は、正門の外の闇に目を凝らした。
松明は一つもない。新月を選んだのは、そのためだ。
だが、平原の闇の中で、何かがゆっくりとうごめいている。草が風とは違う向きに揺れ、金属が、微かに星の光を拾う。
人の列だ。百、いや――百五十はいる。
記憶の中には、この数字はない。この夜は、ゲームのどこにもない。
その代わりに――俺には、仲間がいる。
三の鐘が、鳴った。
その余韻が消えないうちに、正門から、重い音が響いた。
閉ざされているはずの大扉が、内側から、ぎいいいと開いていく。
門の内側には、ダンケル家の紋章をつけた私兵たちが、松明も持たずに立っていた。
――来た。
闇の中の列が、一気に速度を上げる。無言で、開いた門へと流れ込んでくる。帝国兵だ。
十人。二十人。三十人。
俺は、胸壁の陰に隠しておいた松明に火をつけた。
そして、それを、三度振った。
――ずうん、と。
大地そのものが揺れたような音だった。
正門の上から、巨大な鉄の格子が落ち、帝国の列を、ちょうど真ん中で断ち切っていた。
「――今だっ!」
正門の内側の闇から、リーゼの声が響いた。
それを合図に、周りの建物の陰から、一斉に松明が灯った。ピートが三日かけて声をかけて回った、平民兵たちだ。百人近い。
格子の内側に取り残された帝国の先頭は、何が起きたのか分からないという顔で立ち尽くしていた。ダンケル家の私兵たちは、それ以上に青い顔をしている。
「武器を捨てろ。捨てなければ――」
リーゼの剣が、紅い炎をまとった。美しい、と俺は思った。あの男の口癖を借りるのは癪だが。
「――捨てたいと思わせてやる」
◇
格子の外では、帝国の本隊が混乱していた。
そして、その背後の平原にも、松明の列が現れた。
リーゼが呼んだ、駐屯地の騎兵だ。ちゃんと間に合った。
挟み撃ちだ。
帝国の本隊が、どちらへ逃げるべきか分からずに渦を巻く。
その中に、一騎だけ、まったく動かない騎馬がいた。
黒い馬。黒い外套。そして、松明の火を反射する、銀の仮面。
――ルカだ。
俺の心臓が、跳ね上がった。あの人がここにいるなら、本隊はそう簡単には崩れない。
仮面の騎士が、顔を上げた。
東壁の上で、松明を握って立ち尽くす俺を。
距離は、二百歩もある。それでも、俺には分かった。あの金色の瞳が、まっすぐに俺を見ている。
長い、一瞬だった。
それからルカは、押し黙ったまま、長剣を高く掲げた。
そして、それを、後ろに向けて振り下ろした。
「――退けーっ!」
その一声で、渦を巻いていた帝国の本隊が、嘘のように統制を取り戻した。駐屯地の騎兵が待ち構える平原ではなく、南の森へと、整然と退いていく。
その最後尾で、黒い馬が一度だけ振り返った。
仮面の騎士が、剣を胸の前に立てていた。騎士の、礼だ。
――借りは、返したぞ。
声は聞こえなかった。でも、俺にはそう言ったように見えた。
◇
「トーマさん! 裏門っす! 司令が――!」
ピートの叫び声で、俺は東壁の石段を駆け下りた。
裏門の前では、二頭の馬と、金貨の入った箱を積んだ荷馬を囲んで、剣撃の音が響いていた。
ダンケル家の私兵が五人。それを、マルタとオルグさんの二人だけで食い止めている。
「どけ、平民! 私の道を塞ぐな!」
馬上で、ヴィクトルが金切り声を上げていた。あの崩れない笑顔は、もうどこにもなかった。
そのとき。
マルタが前の私兵と槍を結んだ瞬間、その背後に、ベルントが馬から飛び降りるのが見えた。手には、短剣。
――灰の峡谷で、マルタは、味方の白刃に背中を刺されて死ぬ。
そんな一文が、前世の記憶の底から、急に浮かび上がってきた。
考えるより先に、体が動いていた。
マルタの空いた左手を、俺は走りながらつかんだ。
「――借ります!」
左腕の刻印が、火を吹いたように熱くなる。
二十年分の槍の勘が、俺の体を通って、ただ静かに動いた。拾った槍の柄が、ベルントの手首を打ち、短剣が闇に飛んだ。
「ぐあっ……!」
「……トーマ、あんた……」
マルタが、驚いた顔で俺を振り返る。
その隙に、ヴィクトルが馬の腹を蹴った。私兵たちの間をすり抜け、裏門の外へ――
「――どこへ行くんだ、司令」
裏門の扉の影から、大きな影が現れた。
落とし格子を落とし終えて、そのまま駆けつけてきたらしい。
ガイの拳が、馬上のヴィクトルの顔面に、まっすぐにめり込んだ。
金髪が宙を舞い、香水の匂いが、裏門の前の泥水の中へ落ちた。
「……泥がお似合いだぜ、司令」
ガイは拳を揺らしながら、そう言った。
「この前、俺たちにもそう言っただろ。……美しくなったよ、少しはな」
泥の中で、ヴィクトルが顔を上げた。鼻から血を流し、白い手袋は泥で真っ黒だった。
その口から、悲鳴のような声があふれ出した。
「……私を、誰だと思っている! 私に触れてただで済むと思うなよ、平民ども! 宰相閣下が――いや、S様が、黙っているものか!」




