第17話 夜明けの稽古
「……はい、これ。お返しします」
鞭打ちの三日後。背中の傷がようやくかさぶたになった朝、俺は副司令室の扉を叩いて、紅い石の短剣を差し出した。
リーゼは、それをちらりと見ただけで、書類から目を上げなかった。
「……傷が治るまで、持っていろ」
「でも、返しに来いって――」
「返しに来た。だから、もう一度貸す。それだけだ」
理屈が、よく分からない。
リーゼは羽ペンを置き、ようやく俺を見た。頬には、うっすらと細い線が残っている。
「それより、トーマ。明日から、夜明けに東壁に来い」
「東壁に?」
「稽古だ。お前の剣は、他人から借りたものばかりだ。……それでは、いつか、借りる相手がいないときに死ぬ」
――それは、俺の台詞ですよ。
とは、もちろん言えなかった。
◇
黒狼砦の東壁。
二か月半前のあの夜、俺が居眠りをしかけた場所だ。
夜が白み始める前の空気は、切れそうなほど冷たい。その中で、リーゼは木剣を構えて待っていた。
「握りが強すぎる。小鳥を握るように、と教わらなかったか」
「……誰にも教わってないです」
「そうだったな。……貸してみろ」
リーゼが、俺の手の上から、自分の手を重ねた。
籠手を外した素手だった。冷たい空気の中で、その手だけが温かい。
「親指と人差し指は添えるだけだ。力を入れるのは、小指と薬指。……そうだ。そう、それでいい」
耳元で声がする。
俺は、剣のことを何一つ考えられなかった。
「……一度強く握った。なぜだ」
「いえ、何も……」
「そうか。……もう一度だ」
そう言って手を離したリーゼの耳も、少し赤かった気がした。たぶん、寒さのせいだ。
◇
稽古は、それから毎朝続いた。
五日目の朝。打ち合いの合間に、俺たちは壁にもたれて、東の空が変わっていくのを眺めていた。
「……傷、残りますね」
頬の細い線を見て、俺は言った。
「勲章だ。……それに、あの男はこの傷を見るたびに嫌な顔をする。悪くない」
そう言って、リーゼは少しだけ口元を緩めた。
それから、しばらく黙っていた後で、ふいにこう聞いた。
「……トーマ。お前の夢に、私は出てくるのか」
心臓が、一つ大きく鳴った。
出てくる。二万時間、ずっと。
ただし、物語が進むほど、あなたの立ち絵からは笑顔が消えていく。最後の一枚絵では、灰の中で、泣きそうな顔で笑っている。俺は一度も、あなたが心から笑うところを見たことがない。
「……出てきます」
俺は、半分だけ本当のことを言った。
「でも、いつも……笑っていません」
リーゼは、少し驚いたように俺を見た。
それから、東の空に目を戻して、ふっと息を吐いた。
「……なら、夢の中の私に伝えておけ」
そのとき、山の端から、朝日が顔を出した。
「――ちゃんと笑え、とな」
そう言って笑ったリーゼの顔を、俺はたぶん一生忘れない。
二万時間、一度も見たことのない顔だった。
「……おい、押すなって――」
「ガイさんこそ、頭でかいんだから――うわっ」
がらがら、と樽が崩れる音がした。
振り返ると、石段の下で、積み上げられた空樽の陰から、ガイとピートが転がり出てきていた。
その後ろには、腕を組んだマルタが立っている。
「……邪魔したね。こいつらは、今日の厨房の芋むき係だ」
リーゼは一瞬でいつもの顔に戻り、木剣を拾い上げた。
「……続きをやるぞ、トーマ」
ただし、耳は真っ赤だった。
◇
その日の昼。
聖燈教会の使者が、俺宛てに一通の手紙を持ってきた。白い封筒には、聖女の印が押されている。
中の便箋は、たった一枚。
『ましな嘘は、思いついた?
私は、まだ生きています。あなたが知っている日付までは、たぶん。
王都で待っています。答えを聞かせて。
――セラ』
……相変わらず、心臓に悪い子だ。
「……聖女様と、文通か」
背後から、ひどく冷たい声がした。
振り返ると、書類の束を抱えたリーゼが、便箋と俺の顔を交互に見ていた。
「ずいぶん、偉くなったものだな」
「いや、これは、その……」
「別に、私には関係のないことだ」
リーゼは、いつもより少しだけ足音を強くして、廊下を去っていった。
……今朝の笑顔は、どこへ行ったんだろう。
◇
その夜。俺が寝台で便箋を眺めていると、兵舎の扉が勢いよく開いた。
「トーマさん! た、大変っす!」
ピートだった。息を切らし、顔が真っ青だ。
「砦の外の酒場で……ベルントの野郎が、べろんべろんに酔って……『新月の夜には、この砦はもう王国のもんじゃない』って……!」




