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第16話 王国の封蠟

尾根を越えたのは、日が沈むほんの少し前だった。

振り返ると、灰色の森に夕闇が降りていくところだった。そして森の奥から、狼の吠え声と、馬の悲鳴と、人間の叫び声が、もつれ合うように聞こえてきた。

誰も、何も言わなかった。

リンデ村で帽子を抱えていた女の子の顔が、頭をかすめた。それでも、胸は少しも軽くならなかった。

◇

三日目の夕暮れ。

黒狼砦の北の物見台に、赤い髪が揺れていた。

狼煙を上げるための薪の前で、リーゼは、砦へ向かってくる十二の人影を一つずつ数えているように見えた。

そして、数え終わった瞬間、その場にしゃがみ込んだ。

……たぶん、そうだったと思う。遠くて、よく見えなかったけど。

裏門の手前で、俺は足を止めた。

「……隊長。この地図、このまま砦に持ち込んだら、取り上げられて燃やされます」

「……だろうね」

マルタは、もう理由を聞かなかった。

裏門が開くと、そこには物見台から駆け下りてきたらしいリーゼが、息を切らして立っていた。

「……十二人。全員だな」

「はい」

「……そうか」

それだけ言って、リーゼは一瞬だけ目を閉じた。

俺は、誰にも見えないように彼女の外套の影で、折り畳んだ地図を差し出した。

「……狼の森の帝国軍の野営地で、これを見つけました。端の封蠟を見てください。……どこか、司令に見つからないところに」

リーゼの指が、封蠟の上で止まった。紫の瞳が、大きく見開かれる。

それから彼女は、何も言わずに地図を雑嚢の底に押し込んだ。

「……蜂蜜パンの下だ。ここなら、誰も探さない」

……一人だけ、探しそうな奴を知っているが。俺だ。

◇

「――で、証拠は?」

司令室で、ヴィクトルはまったく興味がなさそうに俺の報告を聞いていた。

だが、狼の森に帝国の野営地があったと俺が告げた瞬間だけ、その指がワインの杯の上で小さく止まったのを、俺は見ていた。

「野営地にあったものです」

俺は、猟師小屋で拾った古い狩り場の地図を差し出した。

ヴィクトルはそれをひったくるように受け取り、裏も表も確かめた。そしてベルントに目配せし、俺の背嚢を隅々までひっくり返させた。

何も出てこない。

ヴィクトルの肩から、力が抜けるのが分かった。そして代わりに、あの崩れない笑顔が戻ってきた。

「つまり、だ。お前たちは敵の野営地を見つけておきながら、まともに戦うこともせず、古紙一枚を持って逃げ帰ってきたわけだ」

「命令は所在を突き止めることでした」

「威力偵察、と言ったはずだよ。『威力』の意味も分からないのかな、平民は」

ヴィクトルは、ゆっくりと立ち上がった。

「敵前逃亡だ。第七歩兵隊、新兵トーマ。中庭で、鞭打ち二十」

◇

中庭の柱に、両手を縛りつけられた。

上半身は裸だ。夜風が背中を撫でていく。周りには、砦中の兵が「見せしめ」のために集められている。

「放せっ! 放せよお前ら! あいつは俺たちを全員生きて連れ帰ったんだぞ!」

ガイの声だ。古参の何人かが、必死にあいつの腕を押さえている。ありがたい。ここであいつが殴りかかったら、俺よりひどいことになる。

鞭を持っているのは、ベルントだった。

「観測塔での借りを、返してやるよ。占い師」

空気が裂ける音がした。

背中に、火を押し当てられたような熱さが走った。

一つ。二つ。三つ。

声は出さなかった。出したら、ガイが本当に止まらなくなる。

四つ。五つ。

視界の端で、マルタが自分の唇を血が滲むほど噛んでいるのが見えた。

六つ目。

鞭が風を切る音がした。だが、痛みが来ない。

ゆっくりと顔を上げる。

俺とベルントの間に、赤い髪が立っていた。

リーゼの頬に、一筋の赤い線が走っている。そこから、血が一滴、顔を伝って落ちた。

中庭中が、息を止めた。

「……ア、アーベント副司令……!」

ベルントの手から、鞭が落ちた。

リーゼは頬の傷には触れもせず、台の上で見物していたヴィクトルをまっすぐに見上げた。

「副司令として、この処罰の中止を求めます」

「……女騎士殿。平民の男をかばって、その顔に傷を作るとは。アーベント家の父上が嘆かれるよ」

「父には、いずれ私から話します。それと――」

リーゼは、懐から小さな紙片を取り出し、ヴィクトルにだけ見えるように、一瞬だけ掲げた。

地図の端を、そこだけ破り取ったものだ。

赤い封蠟。天秤と剣。

「――王都の監察院にも、報告しなければならないことがありますので」

ヴィクトルの顔から、血の気が引いていくのが、夜の中庭でもはっきり分かった。

長い沈黙。

それから、ヴィクトルは、いつもの笑顔を作り直した。ただし、口の端が少しだけ引きつっていた。

「……今夜は、このくらいにしておこう。血を見るのは、美しくないからね」

香水の匂いが、速足で中庭から消えていった。

◇

縄をほどかれ、俺はその場に膝をついた。

「……なんで、ですか」

それだけ言うのがやっとだった。

リーゼは、俺の前にしゃがみ込んだ。頬の傷から、また一滴、血が落ちた。

「お前は私の部下だ。部下を鞭で打たせる上官がいるか」

それから、俺にだけ聞こえる声で、小さく付け加えた。

「……それに、お前はまだ、短剣を返しに来ていないだろう」

◇

【幕間 ヴィクトル】

司令室の暖炉に、また一組、白い手袋が放り込まれた。

「……封蠟を見られた」

「し、司令……ど、どういたしますか」

青い顔をしたベルントに、ヴィクトルは微笑みかけた。

「どうもしないさ。……計画を、少し早めるだけだ」

ヴィクトルは、窓の外の、細く痩せた月を見上げた。

「新月まで、あと何日だ?」

「……十二日です」

「結構。では十二日後に、この砦は本来あるべき姿に戻る」

そして、笑顔のまま、こう付け加えた。

「――『シナリオどおり』にね」

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