第15話 狼の森
「全員、俺について来い! 走るな、だが止まるな!」
自分がこんな声を出せるとは思わなかった。新兵の俺が、隊長より先に号令をかけている。だがマルタは何も言わず、「聞いたな、あいつに従え」とだけ短く付け加えた。
森の入り口から、右へ百歩。倒れた巨木の向こう。
ゲームのマップを、頭の中で重ね合わせる。二万時間のうち、この森でどれだけ死んだか。その全部が、今は地図になっている。
――あった。
倒木の根元から、細い小道が奥へと続いている。その両側の地面を、苔が覆っていた。
日が沈むにつれて、苔が、ほんのりと青く光り始める。
月光苔だ。
「この光ってる道から、絶対にはみ出すな!」
十二人が一列になって、苔の道に入った。
そのすぐ後、後ろの茂みが割れた。
灰色の狼だった。馬ほどの大きさがある。一頭、二頭、五頭――数えるのをやめた。黄色い目が、闇の中で俺たちを取り囲んでいく。
「トーマさん、囲まれてるっす! あれ、全部こっち見てるっすよぉ!」
「黙って歩け、ピート!」
一頭が、苔の道のすぐ端まで足を踏み出した。
生臭い息が、俺の顔にかかる。
俺は短剣の柄を握りしめた。リーゼから借りた、紅い石の短剣を。
狼の前足が、苔の光に触れた。
――ギャウッ。
焼けた石を踏んだように、狼は飛びのいた。そして、苔の光を忌々しげに睨みつけながら、それ以上は近づいてこなかった。
俺は、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。
仕様どおりだ。
いや――ここは現実だから、仕様じゃない。たぶん、この世界の本当の理屈があって、ゲームはそれを写していただけなのだ。
「……トーマ」
すぐ後ろで、マルタが、ひどく静かな声で言った。
「お前、本当に何者なんだい」
答えられない。だから俺は、前を向いたまま、歩き続けた。
◇
苔の道の終わりには、古い猟師小屋があった。ゲームでは「誰かの日記」が落ちているだけの場所だ。俺たちはそこで一夜を過ごし、小屋の周りを狼の足音が朝まで巡り続けた。
誰も、ほとんど眠れなかった。
夜が明けると、狼たちは嘘のように姿を消した。灰狼は夜にしか狩りをしない。それも、ゲームどおりだ。
そして、小屋からさらに北へ半刻歩いたところで。
「……伏せろ」
先頭を歩いていた古参のオルグさんが、片手を上げた。
木々の向こうが、開けていた。杭を打って組んだ簡素な柵。馬をつなぐための木。帝国の紋章が入った天幕が、三つ。
野営地だ。
「……騎兵が、本当にいたんだな」
ガイが小さくつぶやいた。
そうだ。ヴィクトルの「情報」は、本当だった。
だからこそ、吐き気がした。あの男は、ここに騎兵がいると知っていて、俺たち十二人を送り込んだのだ。狼に喰われるか、騎兵に踏み潰されるか。どちらでもよかったのだ。
だが――野営地は、ほとんど空だった。
馬がいない。残っているのは、焚き火の前でうたた寝している見張りが三人だけ。騎兵の本隊は、またどこかへ「狩り」に出ているのだ。
「……隊長。中央の天幕を調べたいです」
「理由は」
「リンデ村を狙った理由が、そこにある気がします」
これは、ゲームの知識じゃない。ただの勘だ。でも、あの壁の日本語を見てから、ずっと頭の片隅に引っかかっていた。
「シナリオを壊すな」と書いた誰かは、一体どうやって、あの村に騎兵が来ることを知っていたのか。
マルタは一瞬だけ考えてから、頷いた。
「見張りは三人。声を出させずに一気にやる。……トーマ、あの刻印、今日は誰のを借りるんだい」
俺は、マルタの手を取った。
「隊長のを。……二十年、一人も部下を死なせなかった槍を、お借りします」
マルタは、ふん、と鼻を鳴らした。でも、その耳の先が少し赤かったのを、俺は見逃さなかった。
◇
見張りの三人を縛り上げるのに、十も数える時間はかからなかった。
マルタの槍は、殺すための槍じゃなかった。柄で足を払い、石突で鳩尾を打つ。相手が声を上げる前に、もう地面に転がっている。二十年分の技が、俺の体を通って、ただ静かに動いた。
中央の天幕には、安酒の匂いと、折り畳まれた地図があった。
広げる。
王国の国境地帯を描いた、精密な地図だった。村の一つ一つに名前が書かれ、そのうちいくつかに、赤い印がついている。
リンデ村にも。
そして――地図の端には、赤い封蠟が押されていた。
帝国の紋章じゃない。天秤と剣を組み合わせた、王国の紋章だ。
「……嘘だろ」
いつの間にか隣に立っていたマルタが、かすれた声で言った。
「これは――宰相府の紋だ」
王国の地図に、王国の封蠟。それが、王国の村を焼いた帝国の騎兵の天幕にある。
つまり、王国の中に、帝国に村を襲わせている者がいる。
そして俺は、宰相の後ろ盾を持つ男を一人知っている。
「――騎馬の音! 本隊が戻ってくるぞ!」
外で、オルグさんが叫んだ。
俺は地図を懐にねじ込んだ。
「苔の道に戻ります! 今は昼だ、狼はいない! 夕暮れまでに尾根を越えれば――」
後ろで、馬のいななきが聞こえた。帝国語の怒声。
そしてガイが、走りながら笑った。
「なあトーマ。あいつら、夜までに尾根を越えられなかったらどうなるんだ」
――灰狼は、苔のない道にいるものを、全部狩る。
俺は、答えなかった。
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