第14話 理不尽な命令
マルタの忠告が当たったのは、たった二日後だった。
「第七歩兵隊に、威力偵察を命じる」
司令室の壁に張られた地図の一点を、ヴィクトルの白い手袋が叩いた。新しい手袋だ。前のは、食堂に着ていったせいで「汚れた」らしい。
「国境の向こう側、狼の森。リンデ村を焼いた帝国の騎兵が、この森に潜んでいるという情報がある。三日でその所在を突き止めてこい」
――狼の森。
その名前を聞いた瞬間、背中に冷たいものが走った。
アシュレクには、本編と関係のない「隠しダンジョン」が三つある。そのうち一つが、狼の森だ。出てくるのは灰狼。群れで狩りをする魔獣で、一頭でも平民兵三人分の強さがある。それが、夜になると百頭単位で動き出す。
推奨レベルは、第四章のラストバトル並み。初めて入ったとき、俺は三分で全滅した。
そこに、新兵を含む平民兵十二人で。
「……異議があります、司令」
マルタの声が、低く響いた。
「狼の森は、猟師も近づかない魔獣の森です。騎兵が潜む場所じゃない。そもそも、その情報はどこから――」
「情報源を、平民の隊長に明かす必要があるのかな?」
ヴィクトルは微笑んだまま、首をかしげた。
「それとも、命令を拒むかい。それならそれで構わないよ。第七歩兵隊は解隊、隊員は全員、抗命の罪で懲罰大隊へ送るだけだ」
懲罰大隊。
最前線のさらに前で、地雷の代わりに歩かされる部隊だ。ゲームの中でも、そこに送られた者が生きて帰ってきたという話は一つもない。
「司令。それは、あまりにも――」
口を開いたのはリーゼだった。
「それならば、副司令として私も同行します。平民兵だけをあの森に――」
「いやいや、それはいけない」
ヴィクトルが、大げさに両手を広げた。
「副司令殿には砦に残っていただく。……大切な婚約者を、危険な場所には出せないからね」
「婚約はお断りしたはずです!」
「そうだったかな。父上からは、まだそういう返事はもらっていないが」
リーゼの拳が、震えていた。
たぶん、これがこの男のやり方だ。自分の手は汚さない。正当な命令の形をした矢を、一番弱いところに放つ。
そして、その矢の先にいるのは、俺だ。
「……受けます」
司令室の全員が、俺を見た。
「トーマ! お前、勝手に――」
「隊長。懲罰大隊に送られたら、全員死にます。でも、狼の森なら……俺は、生きて帰る道を知っています」
小声でそう言うと、マルタはしばらく俺の目を見ていた。
それから、短く息を吐いた。
「……夢かい」
「夢です」
アシュレクの狼の森には、一つだけ安全な道がある。「月光苔」という、夜に青く光る苔が生えた道だ。灰狼はその光を嫌い、苔の道には入ってこない。攻略サイトにも載っていない、二万時間やった人間だけが知っている裏道だ。
――ただし、それはゲームの仕様の話だ。
ここは現実だ。狼が本当に苔を嫌うかどうかは、行ってみなければ分からない。
「結構」
ヴィクトルは満足そうに頷いた。
「さすがは未来が見える平民だ。自分の末路も、さぞよく見えていることだろう」
◇
出発は、翌朝の夜明け前になった。
黒狼砦の裏門。第七の十二人が、三日分の食糧と槍を担いで並んでいる。誰も、いつものようには笑っていなかった。
「トーマ」
門の陰で、リーゼが待っていた。
俺は、昨夜のうちに書いておいた紙を、彼女の手に握らせた。
「三日目の日没までに俺たちが戻らなかったら、北の物見台から狼煙を上げてください。合図の中身は、そこに書いてあります」
「……それも、夢の続きか」
「保険です」
「ほけん……?」
しまった。この世界に保険はない。
リーゼは不思議そうに紙を見つめていたが、やがてそれを懐にしまった。
そして、自分の腰から、一振りの短剣を外した。
鞘は使い込まれて黒ずんでいるが、柄頭には小さな紅い石がはめ込まれている。
「母の形見だ。貸すだけだ」
「えっ――そんな大事なもの」
「だから、貸すだけだと言っている。……返しに来い。必ずだ」
紫の瞳が、少しだけ揺れていた。
「……戻れ。これは、命令だ」
俺は短剣を受け取った。その重さを、たぶん一生忘れないと思った。
「……はい。必ず」
裏門が、きしみながら開いていく。
その向こうで、物見塔の上から俺たちを見下ろしている男がいた。金糸の後れ毛。
「せいぜい、狼の餌になってこいよ、占い師さん」
ベルントの笑い声を背中で聞きながら、俺たちは国境へ向かって歩き出した。
◇
狼の森に着いたのは、二日目の夕暮れだった。
木々が全部、灰色をしている。葉も、幹も、地面を覆う落ち葉まで。風が吹くたびに、灰のような匂いがした。
「……なあ、トーマさん」
一番後ろを歩いていたピートが、震える声で俺を呼んだ。
「なんか……森の奥で、目が光ってるっす。……たぶん、百くらい」
遠くで、狼が一頭、長く吠えた。
それに応えるように、二頭、十頭――森そのものが吠え始めた。




