第13話 縁談
砦の食堂は、平民兵にとって数少ない「貴族のいない場所」だった。
――昨日までは。
「やあ、諸君。そのまま食べていてくれたまえ」
夕食時。黒パンと薄いスープの匂いの中に、あの香水の匂いが混じった。
ヴィクトルは、食堂の真ん中をゆっくりと横切り、奥の席で一人スープを飲んでいたリーゼの前で足を止めた。後ろには、例によってベルントがいる。
「アーベント嬢。本日、あなたの父上から書状が届いたようだね」
リーゼの匙が止まった。
「……私信です。司令がお知りになる理由はありません」
「理由ならあるさ。その書状には、私の名前が書いてあるはずだからね」
ヴィクトルは、食堂中に聞こえる声で言った。
「アーベント伯爵家とダンケル伯爵家の縁談だ。父上は、大筋で承知してくださった。……アーベント家の借金を、宰相閣下が肩代わりしてくださるという条件でね」
食堂中が、しんと静まり返った。
俺の手から、黒パンが転がり落ちた。
縁談。リーゼの。
ゲームには、そんな話は出てこなかった。いや――出てこなかったのじゃない。「リーゼは家のことを語りたがらない」という一文の裏側に、隠されていたのだ。
「さあ、婚約者殿」
ヴィクトルが、白い手袋の手を差し出した。リーゼの手を取ろうとする。
その手が、空を切った。
リーゼが立ち上がり、一歩下がっていた。
「父の書状は読みました。ですが、婚約するのは父ではなく私です。返事は、私がします」
紫の瞳が、まっすぐにヴィクトルを射抜いた。
「――お断りします」
食堂にいた五十人近い平民兵が、全員それを聞いた。
ヴィクトルの笑顔が、一瞬だけ歪んだ。ほんの一瞬。まばたきをするほどの間だけ、貼り付けたような笑顔が剥がれて、その下のものが見えた。
何かを壊したがっている子供のような顔だった。
「……ふふ。照れているのかい。可愛いものだ」
すぐに、笑顔は元に戻った。
そのとき、ベルントがヴィクトルの耳元に何かを囁いた。そして二人の視線が、そろって俺の上で止まった。
「……なるほど。女騎士殿は、泥の匂いがお好みというわけか」
ヴィクトルはそれだけ言うと、ハンカチで鼻を押さえて食堂を出ていった。
◇
「……おいトーマ。顔、すげえことになってるぞ」
兵舎に戻ると、ガイにそう言われた。
「そうっすよ。さっき、『縁談』って聞いた瞬間のトーマさん、床に落ちたパンより世界が終わった顔してましたよ」
ピートが、ほら、と俺の顔を指差す。
「してない」
「してました」
「してたな」
古参のオルグさんまでが、片方しかない目で頷いている。
……そんな顔をしていたのか、俺は。
分かっている。俺は新兵で、彼女は伯爵家の娘で、副司令だ。それに俺が彼女を守りたいのは、一年後に死なせないためだ。それ以上の理由なんて――
そこまで考えて、棘のようなものが、胸の奥に残っているのに気づいた。
◇
夜。俺は武器庫の点検当番だった。
槍の穂先を一本ずつ確かめていると、扉の外で足音が止まった。
「……トーマ」
リーゼだった。なぜか、入ってこない。扉の隙間から、赤い髪が少しだけ見えている。
「……さっきのは、お前のためじゃないからな」
「……はい?」
「食堂でのことだ。私は、もともとあの男が嫌いだ。子供の頃からだ。……だから、お前が気にすることは何もない」
気にするなと言われても、俺が何を気にしていると思っているのか。
それを聞く勇気は、俺にはなかった。
扉の隙間から、紙に包まれた何かが差し出された。
「……蜂蜜パンだ。一つ余った。食え」
「え、でもこれはリーゼ様の――」
「余ったと言った。……それと、誰にも言うなよ」
足音が、速足で遠ざかっていった。
俺は、まだ少し温かいパンを、しばらく両手で持ったまま動けなかった。
――それを、武器庫の入口の陰から、マルタが呆れた顔で見ていた。
「……若いってのは、いいもんだね」
「いつからいたんですか」
「最初からだよ。……それより、一つ忠告しとく」
マルタの声から、ふっと笑いが消えた。
「ああいう男はね、自分に恥をかかせた女には手を出せない。家柄があるからね。だから――その女のそばにいる、一番弱い奴を狙うんだ」
一番弱い奴。
この砦で、それが誰のことかは、考えるまでもなかった。
◇
【幕間 ヴィクトル】
「……汚らわしい」
司令室。ヴィクトルは、食堂で着ていた手袋を暖炉に放り込んだ。白い布が、ゆっくりと黒く縮んでいく。
「平民の前で、この私に恥をかかせた。……ベルント」
「はっ」
「あの平民は、何といったかな」
「トーマです。第七歩兵隊の」
ヴィクトルは微笑んだ。いつもの、崩れない笑顔で。
そして、封筒に一通の手紙を入れ、宰相府の紋章で封蠟を押した。
宛先には、ただ一文字。
『S』
「ご報告申し上げます、と書いておいたよ。……砦に、少々邪魔な平民が一匹。近いうちに片付けます、とね」




