第12話 新しい砦司令
黒狼砦の中庭には、全兵が整列させられていた。
リンデ村から帰ったばかりの俺たち第七は、着替える暇もなかった。外套は煤と泥で黒く、靴には焼けた木材の灰がこびりついている。
その俺たちの前を、一人の男がゆっくりと歩いていた。
二十代半ば。細く巻いた金髪。白い手袋。軍服の縁には金糸の刺繍。風上に立つと、生きた花でもこんなには匂わないだろうというほど、香水の匂いがした。
ヴィクトル・ダンケル。新しい砦司令だ。
その半歩後ろには、見覚えのある金糸の後れ毛が揺れていた。
ベルント准騎士。王都へ呼び戻されたはずの男が、新司令の副官として戻ってきていた。俺と目が合うと、口の端だけで笑った。
「――諸君」
ヴィクトルは台の上に立ち、中庭を見下ろした。
「私は、この砦を王国一美しい砦にするために来た。そのために、まず諸君に覚えてもらうことが一つある」
白い手袋の指が、平民兵の列をゆっくりとなぞった。
「平民の兵は、貴族の盾である。そして――盾は、口をきかない」
列のどこかで、誰かが息を飲む音がした。
ヴィクトルの視線が、第七の上で止まった。
「……どうやら、早速、美しくない盾があるようだな」
「第七歩兵隊です、司令。燃えた村から、生存者を救い出して戻ったばかりです」
マルタが一歩前へ出た。声は落ち着いていたが、拳が白くなっている。
「理由は聞いていない」
ヴィクトルはハンカチで鼻を押さえた。
「身だしなみ違反だ。第七歩兵隊、全員その場に跪け。日没までだ」
中庭は、昨夜の雨でぬかるんでいた。
「司令、それは――」
「隊長の身だしなみも美しくないな。身だしなみも、身の程も。……お前も跪け」
マルタは一瞬だけ目を閉じた。
それから、黙って泥の中に膝をついた。
「……隊長……」
「第七、跪け。命令だ」
振り返らずに言うマルタの背中を見て、俺は分かった。この人は、自分が先に跪くことで、俺たちが逆らう理由を消したのだ。ここで誰かが逆らえば、その誰かは「上官への反抗」で罰せられる。
俺たち十二人は、泥の中に膝をついた。冷たい水が、ずぶずぶとズボンに染みてくる。
「うむ、少しは美しくなった」
ヴィクトルが満足そうに頷き、ベルントが噴き出した。
――殴りたい。
生まれて初めて、前世も含めて初めて、俺は本気で人を殴りたいと思った。
でも、ここで俺が立ち上がれば、マルタが跪いた意味がなくなる。
俺は拳を泥に押し込んだ。
◇
「さて、次の件だ」
整列が終わると、ヴィクトルは司令室にリーゼを呼びつけた。なぜか俺も一緒にだ。膝から下は泥だらけのままだ。
「先日の補給隊の件。王都への報告書は、まだ出していないそうだな」
「明日、出す予定でした」
「では、一箇所だけ書き換えておけ」
ヴィクトルは、ワインの杯を揺らしながら言った。
「『尾根道への経路変更は、着任前のダンケル司令の事前指示によるものである』とな」
「……事実と違います」
「事実というのはね、アーベント嬢。後から報告書を書いた者が決めるものだよ」
リーゼの顔から、表情が消えた。野営地でその名前を聞いたときと同じ顔だ。
「お断りします。報告書には、経路を進言したのは第七歩兵隊のトーマだと、ありのまま書きます」
「……そうか。それは残念だ」
ヴィクトルは、まるで天気の話でもするように微笑んだ。そして、その笑顔のまま、俺の方を向いた。
「それで、お前が噂の平民か。未来が見えるという」
「……夢を見るだけです」
「面白い。では占ってもらおう」
ヴィクトルは杯を掲げた。
「一つ。私は、この砦を足がかりに将軍になれるか。二つ。――そこのアーベント嬢は、私の妻になるか」
……は?
リーゼの肩が、わずかに強ばったのが分かった。
「……分かりません」
俺はそう答えた。本当に、分からなかったからだ。
ガシャン、と音がした。
ヴィクトルが、ワインの杯を床に叩きつけていた。赤い液体が、俺の泥だらけの靴に飛び散っている。
「使えない占い師だ。……まあいい。使えない道具は、使える場所に送るだけだ」
笑顔は、一度も崩れなかった。それが、一番気味が悪かった。
「片付けておけよ、平民。私のワインが、お前の汚い靴で台無しになったのだからな」
◇
床を拭きながら、俺は必死に記憶を探っていた。
ダンケル。どこで聞いた。立ち絵のあるキャラじゃない。でも、確かにどこかで――
床のワインが、布に染みて赤く広がる。
それを見た瞬間、一枚の画面がよみがえった。
灰の峡谷。燃える崖の下で、助けが来ないことを悟ったリーゼが、部下を振り返る場面。その直前に、テキストウィンドウに一行だけ流れる、名前のない伝令の台詞。
『報告! ダンケル将軍は、撤退の鐘を鳴らさず、すでに本陣を離れられました!』
――あいつだ。
一年後、女騎士と第七歩兵隊を峡谷に置き去りにして、一人だけ逃げた将軍。
それが今、この砦の主になった。




