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104/105

第104話 約束の場所

夜明け前の東壁は、ひどく寒かった。

藍色の空。砦の向こうに広がる、まだ眠っている野と森。そのもっと向こうに、うっすらと見える、灰の峡谷の方角。

二年前の秋、俺はこの壁の上で、居眠りをしそうになりながら、前世を思い出した。

「――待たせたな」

背後から、声がした。

リーゼだった。いつもの軍服ではない。暖かそうな生成りの外套に、赤い髪をゆるく結んでいる。

「……司令が、一番遅いんですね」

「うるさい。――外套をどれにするか、迷っていたんだ」

それだけ言って、リーゼは、いつものように俺の隣に並んだ。

◇

「――帳面は」

「ここに」

俺は、壁の上に、あの帳面を広げた。

表紙の角は擦り切れ、ページには灰や煤や、乾いた血の痕までついている。二年分の、俺たちの戦いが、この一冊に詰まっていた。

最後のページを開く。

『帝都陥落 ―― ルカ(玉座の間にて)』

『黄昏の日 ―― セラ(最後の聖女として)』

『同 ―― 王都の人々』

『同 ―― シオン(灰の王の心臓にて)』

一番下の名前にだけ、細く、震えた線が引かれている。峡谷の底で、シオンが自分で引いた線だ。

「残りの三つは、ここで引きたかったんです」

「……ああ」

俺はペンを取り、ルカの名前に線を引いた。

帝都からの手紙には、皇太子の仕事の愚痴と、奥庭の花壇の花が今年も咲いたことが書いてあった。父帝と二人で、それを見たのだそうだ。

次に、セラの名前。

「灯の家」の子どもたちは、もう三十人を超えた。白い髪の聖女は、今日も王都の下町で、祈らない手当てを教えている。

そして――王都の人々。

黄昏の日、大聖堂の前に二万の蝋燭を掲げた人たち。パン屋の親父も、女将も、下町の子どもたちも。

俺はペンを、その一行の上で止めた。

「……司令」

「ああ」

リーゼの手が、俺の手に重なった。この壁の上で、彼女の名前に線を引いたあの朝と、同じように。

二人の手で、最後の一本の線を引いた。

◇

俺は、帳面を、最初のページまでめくり戻した。

一番最初のページの、一番最初の一行。そこには、二年前の俺が、震える字で書いた名前がある。

『黒狼砦東壁 ―― 兵士C(夜襲にて、居眠りのまま)』

その名前には、二年前の翌朝に引いた、乱暴な線が入っていた。

そこから、最後のページまで。

帳面に書かれた、すべての名前に、線が引かれていた。

一つの例外もなく。

「……終わったんだな」

リーゼが、小さく呟いた。

「はい。――終わりました」

俺は帳面を閉じ、懐にしまった。

そして――リーゼのほうに、向き直った。

◇

「リーゼさん」

「……ああ」

心臓が、うるさい。灰の王の前に立った時よりも、ずっと。

「俺は、二万時間、画面の向こうのあなたを見ていました。あの隘路で、一人で死んでいくあなたを。――ずっと、助けたいと思っていました」

「…………」

「でも、この世界であなたに会って、毎朝剣を振るあなたを見て、不器用に笑うあなたを見て――いつの間にか、助けたいだけじゃなくなっていました」

俺は、片膝をついた。

東壁の石の上は、冷たかった。

「これから先も、ずっと、あなたの隣にいさせてください。――結婚してください、リーゼさん」

東の空の端が、わずかに白み始めていた。

リーゼは、しばらく何も言わなかった。

ただ、その赤い髪が、夜明けの風に小さく揺れていた。

やがて――彼女は、口を開いた。

「――行くな」

その声は、震えていた。

「生きろ。いつまでも、私の隣で。――それが、命令だ」

――『行け。生きろ。それが命令だ』。

原作で、彼女が死ぬ前に残す、最後の台詞。二万時間、何度も聞いて、何度も泣いた台詞。

それが今、彼女自身の言葉で、書き換えられた。

「……はい。――喜んで」

立ち上がった俺の胸に、リーゼが飛び込んできた。

その瞬間、東の地平線から、朝日が昇った。

◇

「――うおおおおおおおっ!!」

突然、東壁の下から、地鳴りのような歓声が湧き上がった。

「…………」

「…………」

恐る恐る壁の下を覗くと、第七の連中が、ひとり残らず、東壁の下にひしめき合っていた。ガイが泣いている。ピートが飛び跳ねている。ノエルが、耳の先まで赤くして顔をそむけている。

その真ん中で、マルタさんが、腰に手を当てて大声を張り上げた。

「――やっとかい! 待ちくたびれたよ、この馬鹿ども!」

リーゼの指先から、これまでで一番大きな花火が、朝の空へと打ち上がった。

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