第104話 約束の場所
夜明け前の東壁は、ひどく寒かった。
藍色の空。砦の向こうに広がる、まだ眠っている野と森。そのもっと向こうに、うっすらと見える、灰の峡谷の方角。
二年前の秋、俺はこの壁の上で、居眠りをしそうになりながら、前世を思い出した。
「――待たせたな」
背後から、声がした。
リーゼだった。いつもの軍服ではない。暖かそうな生成りの外套に、赤い髪をゆるく結んでいる。
「……司令が、一番遅いんですね」
「うるさい。――外套をどれにするか、迷っていたんだ」
それだけ言って、リーゼは、いつものように俺の隣に並んだ。
◇
「――帳面は」
「ここに」
俺は、壁の上に、あの帳面を広げた。
表紙の角は擦り切れ、ページには灰や煤や、乾いた血の痕までついている。二年分の、俺たちの戦いが、この一冊に詰まっていた。
最後のページを開く。
『帝都陥落 ―― ルカ(玉座の間にて)』
『黄昏の日 ―― セラ(最後の聖女として)』
『同 ―― 王都の人々』
『同 ―― シオン(灰の王の心臓にて)』
一番下の名前にだけ、細く、震えた線が引かれている。峡谷の底で、シオンが自分で引いた線だ。
「残りの三つは、ここで引きたかったんです」
「……ああ」
俺はペンを取り、ルカの名前に線を引いた。
帝都からの手紙には、皇太子の仕事の愚痴と、奥庭の花壇の花が今年も咲いたことが書いてあった。父帝と二人で、それを見たのだそうだ。
次に、セラの名前。
「灯の家」の子どもたちは、もう三十人を超えた。白い髪の聖女は、今日も王都の下町で、祈らない手当てを教えている。
そして――王都の人々。
黄昏の日、大聖堂の前に二万の蝋燭を掲げた人たち。パン屋の親父も、女将も、下町の子どもたちも。
俺はペンを、その一行の上で止めた。
「……司令」
「ああ」
リーゼの手が、俺の手に重なった。この壁の上で、彼女の名前に線を引いたあの朝と、同じように。
二人の手で、最後の一本の線を引いた。
◇
俺は、帳面を、最初のページまでめくり戻した。
一番最初のページの、一番最初の一行。そこには、二年前の俺が、震える字で書いた名前がある。
『黒狼砦東壁 ―― 兵士C(夜襲にて、居眠りのまま)』
その名前には、二年前の翌朝に引いた、乱暴な線が入っていた。
そこから、最後のページまで。
帳面に書かれた、すべての名前に、線が引かれていた。
一つの例外もなく。
「……終わったんだな」
リーゼが、小さく呟いた。
「はい。――終わりました」
俺は帳面を閉じ、懐にしまった。
そして――リーゼのほうに、向き直った。
◇
「リーゼさん」
「……ああ」
心臓が、うるさい。灰の王の前に立った時よりも、ずっと。
「俺は、二万時間、画面の向こうのあなたを見ていました。あの隘路で、一人で死んでいくあなたを。――ずっと、助けたいと思っていました」
「…………」
「でも、この世界であなたに会って、毎朝剣を振るあなたを見て、不器用に笑うあなたを見て――いつの間にか、助けたいだけじゃなくなっていました」
俺は、片膝をついた。
東壁の石の上は、冷たかった。
「これから先も、ずっと、あなたの隣にいさせてください。――結婚してください、リーゼさん」
東の空の端が、わずかに白み始めていた。
リーゼは、しばらく何も言わなかった。
ただ、その赤い髪が、夜明けの風に小さく揺れていた。
やがて――彼女は、口を開いた。
「――行くな」
その声は、震えていた。
「生きろ。いつまでも、私の隣で。――それが、命令だ」
――『行け。生きろ。それが命令だ』。
原作で、彼女が死ぬ前に残す、最後の台詞。二万時間、何度も聞いて、何度も泣いた台詞。
それが今、彼女自身の言葉で、書き換えられた。
「……はい。――喜んで」
立ち上がった俺の胸に、リーゼが飛び込んできた。
その瞬間、東の地平線から、朝日が昇った。
◇
「――うおおおおおおおっ!!」
突然、東壁の下から、地鳴りのような歓声が湧き上がった。
「…………」
「…………」
恐る恐る壁の下を覗くと、第七の連中が、ひとり残らず、東壁の下にひしめき合っていた。ガイが泣いている。ピートが飛び跳ねている。ノエルが、耳の先まで赤くして顔をそむけている。
その真ん中で、マルタさんが、腰に手を当てて大声を張り上げた。
「――やっとかい! 待ちくたびれたよ、この馬鹿ども!」
リーゼの指先から、これまでで一番大きな花火が、朝の空へと打ち上がった。




